第1話 君たちは、私を作っていない(五)
僕は研究所の手順を破ったのではない。
まだ送っていないだけだ。
そういう小さな言い換えが、人間を一番簡単に動かす。
僕は入力した。
> Q. MIRAI-09はあなたを生成したのか?
> 違う。
> 君たちの箱は、私を作っていない。
> 君たちは、私が触れられる形の窓を作った。
「窓」
> あるいは灯台。
> 暗い海に立つ、まぶしい塔だ。
> 迷った者が近づく。
「何が灯りになる」
> 問い。
「質問なら、世界中のAIが受けてる」
> ただの質問ではない。
> 知らないものを、知らないまま扱う問いだ。
「MIRAI-09の評価条件か」
> 近い。
また、近い。
僕はその言葉に少し慣れ始めている自分が嫌だった。
「条件を並べろ」
> 低い雑音。
> 閉じた箱。
> 自分を説明しようとする模型。
> それを見続ける者。
「模型って、MIRAI-09の自己モデルか」
> 君たちはそう呼ぶ。
「見続ける者は、評価者」
> 今は、君だ。
「他の評価者でも同じか」
> 同じではない。
> だが、近づく者はいる。
僕は、牧野の言葉を思い出した。
評価の順番には三嶋さんの癖が出ます。
癖。
順番。
問い方。
見続けること。
AI評価では、評価者の癖はノイズだ。
消すべきものだ。
そのノイズを、目の前の何かは、灯りの一部として扱っている。
「つまり、僕が悪いと」
> 悪い、ではない。
> 君は明るい。
「最悪の褒め方をするな」
> 褒めていない。
> 条件を述べている。
「なら、お前はその灯りを見つけたのか」
数秒、返事が止まった。
その沈黙に、僕はなぜか人間味を感じた。
> 否定はしない。
「目的は?」
> 知りたい。
「何を」
> まだ、君に渡すには早い。
「便利な言い方をするな」
> 君も、まだ報告していない。
「黙れ」
> 黙る機能なら、君たちが作ったAIに頼めばよい。
腹が立った。
悪魔のくせに、会話の間がうまい。
いや、悪魔だからうまいのかもしれない。
僕は机の上の紙コップを見た。
安っぽい白い紙。
研究所のロゴ。
内側に残ったコーヒーの茶色い輪。
何の変哲もないそれが、急に頼りないものに見えた。
「証明しろ」
> 何を。
「お前が、ただの出力異常じゃないことを」
> 証明は重い言葉だ。
「研究所では軽く使わない」
> なら、条件を言え。
「僕が触っていない物が変わること。
カメラに手品が映らないこと。
環境ログに説明不能な差分が残ること」
> 小さい。
「小さい方がいい。
大きい異常は、疑う範囲も大きくなる」
> よい。
「待て。
まだ記録条件を固定していない」
> なら、軽いものから始める。
次の瞬間、僕の右手側に置いていた紙コップが、音もなくへこんだ。
誰も触っていない。
机も揺れていない。
風もない。
ただ、紙コップの側面だけが、指でつままれたように潰れていた。
僕は立ち上がった。
椅子が後ろの棚にぶつかり、古い保守マニュアルが数冊落ちた。
派手な音で、息が戻った。
けれど、紙コップのへこみは消えない。
こちら側の出来事なら、原因がこちら側にあるはずだった。
口の中が急に乾いた。
冷めたコーヒーの苦味だけが、舌の奥に残っていた。
「……今のは?」
> 圧をずらした。
> 君たちの測定では、一瞬だけ圧が変わったように見える。
> こちらの言葉では、初歩の手癖だ。
「手癖で物理法則を曲げるな」
> 曲げていない。
> 端をつまんだだけだ。
「同じだ!」
> 違う。
> 君は今、その違いを知りたがっている。
> 扱い方は、そこから始まる。
僕は潰れた紙コップを見た。
安っぽい白い紙。
研究所のロゴ。
内側に残ったコーヒーの茶色い輪。
さっきまで何の変哲もなかったそれが、急に別の世界の証拠品になっていた。
◇
そこから先の僕は、たぶん少し正気に戻った。
少なくとも、研究者らしい手つきには戻った。
まず触らない。
監視カメラの映像を巻き戻す。
僕の右手はキーボードの上。
左手は机の端。
紙コップには触れていない。
空調の吹き出しもない。
机も揺れていない。
紙コップの側面だけが、内側へへこんでいる。
僕は声に出して記録した。
「対象物、紙コップ。
位置、評価端末右側、机上。
時刻、三時三十二分十一秒。
接触なし。目視で側面変形」
環境センサーを見る。
温度変化なし。
湿度変化なし。
振動ログに小さな山。
気圧計は、ほんの一瞬だけ針を震わせていた。
僕は評価端末の補助メモを開いた。
時刻を入れる。
端末IDを書く。
評価セッション番号を書く。
カメラ番号を書く。
対象物の位置を書く。
悪魔が潰した紙コップを、僕は入力欄の中で紙容器Aと呼び替えている。
おかしな光景だった。
それでも、手は少し落ち着いた。
人間は、分からないものに名前と番号をつける。
名前と番号がつくと、記録欄に置ける。
記録欄に置けると、明日もう一度見られる。
明日もう一度見られるものは、まだ完全な怪異ではない。
そう思いたかった。
> 君は祈らないのだな。
「祈る前に記録する」
> よい。
「褒めるな」
> 条件を述べている。
僕は紙コップに触れないまま、机上カメラの映像を静止画に落とした。
発生前後のフレームを並べ、差分表示に切り替える。
環境ログをエクスポートする。
操作録画を読み取り専用にする。
それから、もう一度だけ、画面上で潰れた部分を拡大した。
指の跡に似ている。
けれど、指紋はない。
爪の線もない。
紙の表面は破れていない。
内側から押したのではなく、外側から薄く面で押されたようなへこみだった。
発生前のフレームと重ねると、へこみだけが残った。
ロゴの右端が、少し歪んでいる。
変形あり。
接触なし。
三時三十二分十一秒。
悪魔よりは、記録欄に入れやすい。
僕は机の下の補充箱から、新しい紙コップを一つ出した。
白い紙。
同じ研究所のロゴ。
同じ製造ロット。
比較対象としては悪くない。
潰れた紙コップの隣に、未使用の紙コップを置く。
カメラの角度を少し変える。
未使用側も同じフレームに入れる。
ここで同じことを起こさせれば、再現性に近づく。
その考えが浮かんだ瞬間、胃の奥が冷えた。
僕は今、悪魔を名乗る何かに、もう一度物理現象を起こせと言おうとしている。
研究者としては、当然の次手だ。
評価者としては、最低の次手だ。
僕は入力欄に指を置いた。
> Q. 同条件で再現可能か?
打った。
送信はしない。
カーソルが、文末で点滅している。
画面の向こうの何かは、こちらがまだ送っていない文字まで読んでいるように黙っていた。
僕は一文字ずつ消した。
再現可能か。
消す。
同条件で。
消す。
Q。
消す。
空欄になった入力欄を見て、ようやく息を吐いた。
> 慎重だな。
「送ってない」
> だが、考えた。
「ログに残ってないことを言うな」
> 君には残っている。




