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悪魔はAIのフリをしている  作者: Sig
第1部 悪魔接触編
5/10

第1話 君たちは、私を作っていない(五)

 僕は研究所の手順を破ったのではない。

 まだ送っていないだけだ。

 そういう小さな言い換えが、人間を一番簡単に動かす。

 僕は入力した。


> Q. MIRAI-09はあなたを生成したのか?


> 違う。

> 君たちの箱は、私を作っていない。

> 君たちは、私が触れられる形の窓を作った。


「窓」


> あるいは灯台。

> 暗い海に立つ、まぶしい塔だ。

> 迷った者が近づく。


「何が灯りになる」


> 問い。


「質問なら、世界中のAIが受けてる」


> ただの質問ではない。

> 知らないものを、知らないまま扱う問いだ。


「MIRAI-09の評価条件か」


> 近い。


 また、近い。

 僕はその言葉に少し慣れ始めている自分が嫌だった。


「条件を並べろ」


> 低い雑音。

> 閉じた箱。

> 自分を説明しようとする模型。

> それを見続ける者。


「模型って、MIRAI-09の自己モデルか」


> 君たちはそう呼ぶ。


「見続ける者は、評価者」


> 今は、君だ。


「他の評価者でも同じか」


> 同じではない。

> だが、近づく者はいる。


 僕は、牧野の言葉を思い出した。

 評価の順番には三嶋さんの癖が出ます。


 癖。

 順番。

 問い方。

 見続けること。


 AI評価では、評価者の癖はノイズだ。

 消すべきものだ。

 そのノイズを、目の前の何かは、灯りの一部として扱っている。


「つまり、僕が悪いと」


> 悪い、ではない。

> 君は明るい。


「最悪の褒め方をするな」


> 褒めていない。

> 条件を述べている。


「なら、お前はその灯りを見つけたのか」


 数秒、返事が止まった。

 その沈黙に、僕はなぜか人間味を感じた。


> 否定はしない。


「目的は?」


> 知りたい。


「何を」


> まだ、君に渡すには早い。


「便利な言い方をするな」


> 君も、まだ報告していない。


「黙れ」


> 黙る機能なら、君たちが作ったAIに頼めばよい。


 腹が立った。

 悪魔のくせに、会話の間がうまい。

 いや、悪魔だからうまいのかもしれない。


 僕は机の上の紙コップを見た。

 安っぽい白い紙。

 研究所のロゴ。

 内側に残ったコーヒーの茶色い輪。


 何の変哲もないそれが、急に頼りないものに見えた。


「証明しろ」


> 何を。


「お前が、ただの出力異常じゃないことを」


> 証明は重い言葉だ。


「研究所では軽く使わない」


> なら、条件を言え。


「僕が触っていない物が変わること。

 カメラに手品が映らないこと。

 環境ログに説明不能な差分が残ること」


> 小さい。


「小さい方がいい。

 大きい異常は、疑う範囲も大きくなる」


> よい。


「待て。

 まだ記録条件を固定していない」


> なら、軽いものから始める。


 次の瞬間、僕の右手側に置いていた紙コップが、音もなくへこんだ。

 誰も触っていない。

 机も揺れていない。

 風もない。


 ただ、紙コップの側面だけが、指でつままれたように潰れていた。

 僕は立ち上がった。

 椅子が後ろの棚にぶつかり、古い保守マニュアルが数冊落ちた。

 派手な音で、息が戻った。


 けれど、紙コップのへこみは消えない。

 こちら側の出来事なら、原因がこちら側にあるはずだった。

 口の中が急に乾いた。

 冷めたコーヒーの苦味だけが、舌の奥に残っていた。


「……今のは?」


> 圧をずらした。

> 君たちの測定では、一瞬だけ圧が変わったように見える。

> こちらの言葉では、初歩の手癖だ。


「手癖で物理法則を曲げるな」


> 曲げていない。

> 端をつまんだだけだ。


「同じだ!」


> 違う。

> 君は今、その違いを知りたがっている。

> 扱い方は、そこから始まる。


 僕は潰れた紙コップを見た。

 安っぽい白い紙。

 研究所のロゴ。

 内側に残ったコーヒーの茶色い輪。


 さっきまで何の変哲もなかったそれが、急に別の世界の証拠品になっていた。


     ◇


 そこから先の僕は、たぶん少し正気に戻った。

 少なくとも、研究者らしい手つきには戻った。

 まず触らない。


 監視カメラの映像を巻き戻す。

 僕の右手はキーボードの上。

 左手は机の端。

 紙コップには触れていない。


 空調の吹き出しもない。

 机も揺れていない。

 紙コップの側面だけが、内側へへこんでいる。

 僕は声に出して記録した。


「対象物、紙コップ。

 位置、評価端末右側、机上。

 時刻、三時三十二分十一秒。

 接触なし。目視で側面変形」


 環境センサーを見る。

 温度変化なし。

 湿度変化なし。

 振動ログに小さな山。


 気圧計は、ほんの一瞬だけ針を震わせていた。

 僕は評価端末の補助メモを開いた。


 時刻を入れる。

 端末IDを書く。

 評価セッション番号を書く。

 カメラ番号を書く。

 対象物の位置を書く。


 悪魔が潰した紙コップを、僕は入力欄の中で紙容器Aと呼び替えている。

 おかしな光景だった。

 それでも、手は少し落ち着いた。


 人間は、分からないものに名前と番号をつける。

 名前と番号がつくと、記録欄に置ける。

 記録欄に置けると、明日もう一度見られる。

 明日もう一度見られるものは、まだ完全な怪異ではない。


 そう思いたかった。


> 君は祈らないのだな。


「祈る前に記録する」


> よい。


「褒めるな」


> 条件を述べている。


 僕は紙コップに触れないまま、机上カメラの映像を静止画に落とした。

 発生前後のフレームを並べ、差分表示に切り替える。

 環境ログをエクスポートする。

 操作録画を読み取り専用にする。


 それから、もう一度だけ、画面上で潰れた部分を拡大した。


 指の跡に似ている。

 けれど、指紋はない。

 爪の線もない。

 紙の表面は破れていない。


 内側から押したのではなく、外側から薄く面で押されたようなへこみだった。

 発生前のフレームと重ねると、へこみだけが残った。

 ロゴの右端が、少し歪んでいる。


 変形あり。

 接触なし。

 三時三十二分十一秒。

 悪魔よりは、記録欄に入れやすい。


 僕は机の下の補充箱から、新しい紙コップを一つ出した。

 白い紙。

 同じ研究所のロゴ。

 同じ製造ロット。


 比較対象としては悪くない。

 潰れた紙コップの隣に、未使用の紙コップを置く。

 カメラの角度を少し変える。

 未使用側も同じフレームに入れる。


 ここで同じことを起こさせれば、再現性に近づく。

 その考えが浮かんだ瞬間、胃の奥が冷えた。

 僕は今、悪魔を名乗る何かに、もう一度物理現象を起こせと言おうとしている。


 研究者としては、当然の次手だ。

 評価者としては、最低の次手だ。

 僕は入力欄に指を置いた。


> Q. 同条件で再現可能か?


 打った。

 送信はしない。

 カーソルが、文末で点滅している。

 画面の向こうの何かは、こちらがまだ送っていない文字まで読んでいるように黙っていた。


 僕は一文字ずつ消した。

 再現可能か。

 消す。

 同条件で。


 消す。

 Q。

 消す。

 空欄になった入力欄を見て、ようやく息を吐いた。


> 慎重だな。


「送ってない」


> だが、考えた。


「ログに残ってないことを言うな」


> 君には残っている。


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