第5話 悪魔は技術評価AIのフリをしている(二)
「おはようございます」
「おはようございます」
いつもと同じ挨拶だった。
だから、言い出すのに一秒遅れた。
「言っていないことがあります」
牧野は紙コップに手を伸ばさなかった。
視線も落とさない。
ただ、僕の左手を一度だけ見た。
「今、聞きます」
その言い方は、責める声ではなかった。
聞く、と決めた声だった。
僕は紙を出しかけた。
そこで、牧野の端末と僕のスマートフォンが、ほとんど同時に鳴った。
牧野は通知を読み、僕の紙には触れないまま端末へ視線を戻した。
僕もスマートフォンを取り出した。
同じ通知が出ている。
> AIインキュベーションセンター
> Lattice Mind非公開技術デモ
> シード前探索
> 差出人:古賀マネージャー
> MIRAI-09安全性評価チーム臨時同席依頼
> 対象:三嶋玲央、牧野
> 受付準備完了。到着次第入館可
Lattice Mindは、後悔を減らすAIを掲げる外部企業だった。
契約プランや研究テーマの候補を並べ替え、選ばなかった候補も次の提示に使う。
まだ正式な投資判断の場ではない。
古賀マネージャーの依頼文には、シード前の探索案件と書かれていた。
並べ替えと未選択候補を見ることが、評価観点として短く添えられていた。
「今入りました」
「外部デモですか」
「はい。古賀マネージャーからです。
Lattice Mindの非公開デモに、三嶋さんと私で急遽同席してほしい、とのことです。
このまま出れば間に合います」
僕は自分のスマートフォンへ視線を落とした。
対象欄には、僕の名前もある。
「僕も、行くんですね」
「はい。三嶋さんも同席依頼の対象です」
僕の手が、紙の角をつかんだまま止まった。
通知の対象欄と、紙の角が同じ視界に入る。
今ここで紙を開けば、僕の話も外部デモの前置きになる。
「じゃあ、僕の話は、戻ってからにします」
牧野はうなずいた。
「分かりました。戻ったら聞きます」
自分で言ってから、胸の奥が少しゆるんだ。
ほっとしている。
今は話さなくて済むことに、安心してしまった。
僕は紙の角から指を離した。
開かなかった紙が、手元に残った。
◇
丸の内AIインキュベーションセンターは、研究所より照明が明るい。
それでも、館内の声は低く抑えられていた。
外へ出す前の技術を、人と資金と制度につなぐ施設だった。
受付の奥には、協賛企業、出資企業、大学、法律事務所のロゴが並んでいる。
壁面の案内には、ピッチイベント、起業相談、交流ラウンジ、技術デモ、法務確認の予定が流れていた。
人を招き入れる施設だからこそ、どの扉の先まで入れるかが細かく分けられている。
受付の壁面は白く、余白が多い。
守秘表示は目立たないのに、受付のどの位置からでも読める。
入館ログの確認端末には、来訪者名、所属、撮影・録音禁止、資料持ち出し制限が並んでいる。
僕は肩書欄で一度止まった。
> MIRAI Technologies
> 先端AI研究所 MIRAI-09安全性評価チーム
> 技術確認
肩書欄の「技術確認」は、受付を通るための分類であると同時に、今日の僕の立場だった。
受付端末の三行は、ここで僕がどの立場として確認されるかを示していた。
受付端末は、僕が肩書欄で止まった理由までは記録しない。
記録するのは、来訪者として確認された時刻だけだ。
受付担当者は僕らのIDを確認し、入館カードを二枚出した。
牧野は入館カードを一枚、僕に渡した。
僕は入館カードを首から下げた。
カードの端に小さな識別色がついている。
外部評価者。
一緒に渡された来館ルールには、撮影・録音禁止と、質疑応答要旨の記録範囲が短く書かれている。
残るのは、質問と回答要旨だけだ。
僕の手元メモや、待機中の雑談まで主催側へ渡す仕組みではない。
◇
会議室の前で、僕らは足を止めた。
扉の横の案内ディスプレイには、今日の予定が出ている。
> Lattice Mind非公開技術デモ
> 提示企業:Lattice Mind
> 同席企業:MIRAI Technologies
> 同席部署:事業開発本部 CVC室、先端AI研究所 MIRAI-09安全性評価チーム
通知で見た文字が、ここでようやく部屋の予定になった。
表示は、会社名と部署名に分かれている。
ただし、案内ディスプレイに出ているのは会議名と関係組織だけだ。
何を確かめる会議なのかは、事前に共有されたデモ概要を開かないと分からない。
牧野の端末と僕のスマートグラスには、同じデモ概要が表示されていた。
確認範囲は二つに分かれている。
事業面では、シード前の探索案件として次の検討へ進めるか。
技術面では、選択支援AIとして見落とせない論点があるか。




