第5話 悪魔は技術評価AIのフリをしている(一)
月曜の朝、玄関の前で鞄を開けた。十円玉は机の上に残してきた。持ち出すものと残すものを、分け直すためだった。
鞄には、日曜の録画と契約写しを入れた外部ストレージが二本ある。
赤い短めのスティック型SSDが確認用。青い薄型のSSDがバックアップ。最終更新時刻を写したメモもある。
スマートフォンと古い端末は仕切りの奥。
薄いノートは背面ポケット。
スマートグラスとイヤーカフは側面ポケット。
それから、紙が一枚。
『一、木曜深夜、MIRAI-09の件をすべては伝えていません。
二、土曜、アゼルがパーソナルAIとして生活圏に出ました。
三、日曜、自宅で単独確認しました。
四、十円玉が一ミリ浮いたように見えます。
五、契約は読みましたが、見落としと写しが最新かを確認できていません。』
字は昨夜よりましだった。
読み返せるくらい整っている。
整っているぶん、自分で自分を納得させる文章にも見えた。
冷静に書けることと、冷静であることは違う。
僕はその違いを、仕事では何度も人に言ってきた。
評価ログに整った文章が残っていても、判断が整っていたとは限らない。
今朝の僕は、整った文章で自分の揺れを隠しかけていた。
机の横から鞄を持ち上げる。
十円玉は、まだ机の中央にある。
玄関から戻ればすぐ目に入る場所に、残してきた。
普通の十円玉だ。
自動販売機へ入れれば十円として扱われる。
コンビニの釣り銭に混ざれば、誰も見分けない。
でも、僕はそれを財布に戻せない。
昨日、机の上で一ミリ浮いたように見えた。
そう書くしかない。
浮いた、と断定すると嘘になる。
見間違い、と片づけると、もっと大きな嘘になる。
玄関で靴を履く前に、紙をもう一度見る。
五項目の三行目で指が止まった。
日曜、自宅で単独確認しました。
この五項目メモは、仕事用の文書ではない。
言い訳でもない。
どこまで自分で認めるかを、先に置く紙だった。
スマートグラスをかける。
視界にカードは出ない。
アゼルは姿を出していない。
グラスのつるからも声は来ない。
静かだった。
だが、静かだから安全だとは、もう思えなかった。
玄関を出る前に、鞄を一度下ろす。
昨夜、机の横へ置いたのは、朝にもう一度机を見るためだった。
何も考えずに、いつもの動作で持って出ないためだった。
それなのに、肩紐はもう上着に食い込んでいる。
止まるために置いたものを、僕は出発の手順に戻しかけていた。
僕は玄関の内側で靴を履いたまま、スマートフォンを開いた。
牧野への未送信相談メモが、画面に残っている。
送信ボタンは押していない。
押せば、今ここで止まれる。
指は、送信ボタンの手前で止まった。
日曜のメモが頭に戻る。
『一回だけ、は信用しない。』
月曜の朝だ。
研究所へ着いてから、牧野に直接言えばいい。
必要なものはそろっている。
どれも、嘘ではない。
嘘ではない理由ほど、送らない理由にしやすい。
僕は送信せず、スマートフォンを閉じた。
代わりに、五項目メモの裏へ一行だけ足す。
『送信しなかった。
直接言う、で済ませない。』
その紙を、すぐ出せるクリアファイルへ戻した。
奥には入れない。
牧野に会ったとき、鞄の奥を探さず引き出せる向きに置く。
エレベーターを待つ間、マンションの壁面表示に管理室からのお知らせが流れる。
共用廊下清掃のお知らせ。
管理室受付時間。
降水確率二十パーセント。
エレベーター点検予定。
ただの共用部通知だ。
建物の予定であって、僕の予定ではない。
それでも、降水確率二十パーセントの数字を見ると、出る前の確認を思い出した。
持って行くことは決めた。
牧野にどこまで話すかは、まだ決めていない。
僕は視線を外した。
共用部の記録に残るのは、エレベーターホールに立った時刻だけだ。
ここで一度ためらったことまでは、残らない。
◇
研究所の正面入口から入ると、外来受付と職員用ゲートが左右に分かれている。
職員用ゲートの前に、列はなかった。
僕は入館証を読み取り部へ当てた。
小さな画面に僕の名前と所属が出て、透明な板が一拍遅れて開く。
流すためのゲートではない。
一人ずつ止めて、通していいかを確認するための機械だ。
駅の改札なら、もっと簡単でいい。
人を止めないためのフロー制御が先に来る。
研究所では逆だ。
流れよりも、誰をどこまで通すかというアクセス制御が先に来る。
改札と同じように抜けられたら楽だ。
けれど、研究所のゲートは、抜ける速さより確認を優先する。
ゲートを抜けた先の共用作業エリアに、牧野がいた。
紙コップの水を二つ置いている。
片方は、僕の前へ押し出されていた。




