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悪魔はAIのフリをしている  作者: Sig
第1章 悪魔接触編
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第4話 第一階梯、念動(六)

 金属が机に触れ直すような、小さな音。

 硬貨を落とした音ではない。

 弾いた音でもない。

 ただ、ほんの短く、ちり、と鳴った。


 僕は息を止めかけ、すぐ戻した。


「触ってない」


 自分の声が裏返った。


「目を離さないで」


 アゼルの声は低い。

 楽しそうではない。

 急がせる響きもない。

 浮いたかどうかへ飛びつこうとしているのは、僕だけだった。


 僕は十円玉から目を離さない。

 肉眼では、浮いているようには見えない。

 定規の目盛りも変わらない。

 影は、少し濃くなったように見える。

 でも、それは僕がそう見たいだけかもしれない。


 スマートグラスの補助線は、十円玉の左下で途切れていた。

 今度は、一瞬ではない。

 薄く途切れたまま残っている。


 十円玉を見る。

 押さない。

 命令しない。

 音を結果にしない。


 右手の親指と人差し指の間に、さっきと同じ薄い紙の端がかかった。

 今度は、もう少しはっきりしている。

 力を入れれば逃げそうなほど細い。

 つまめそうで、つまめない。

 そこへピントを合わせようとすると、消えそうになる。


 分かったとは言えない。

 けれど、さっきよりは迷わない。

 硬貨の下へ指を差し込むつもりで、十円玉と机の間に意識を置く。


 肉眼に線はない。

 でも、スマートグラスの補助線はある。

 補助線が途切れたところだけ、影の濃さが少し違う。


 探しに行かない。

 あると決めつけるのでもない。


 持ち上げたいと思ったところで、一拍置く。


 指先の感覚が、ほんの少しだけ引っかかった。


 横に立てたスマートフォンの画面には、十円玉の下端に黒い線のような影が出ていた。

 肉眼では、影が濃くなった程度にしか見えない。

 定規の目盛り一つにも満たない細さだった。

 見えた、としかまだ言えない。


 少なくとも僕の目には、十円玉が一ミリだけ浮いた。


「うわっ!」


 声が出た。


 浮いた十円玉は、すぐ落ちた。

 小さな音が机の上で鳴った。

 ちり、ではない。

 今度は、確かに落ちた音だった。


 僕は椅子から立ち上がりかけ、膝を机にぶつけそうになって止まった。

 録画中だ。

 机に触るな。

 今、触るな。


「浮いた! 今、浮いた!」


「戻ったわ」


「一ミリでも浮いただろ!」


「ええ。十円玉は離れたわ」


 アゼルの声は冷静だった。

 でも、ほんの少しだけ、声が軽かった。


「もっと驚け」


「君の方がもう驚いているわ」


「お前が教えたんだろ」


「君がやったのよ。私は補助線を出して、急がないように言っただけ」


 その返しで、胸が詰まった。


 君がやった。


 成功した、と言われるより重い。

 アゼルがやった、と言われるよりも逃げ道がない。


 僕が見て、僕の見えない手が届いてしまった。


 十円玉は机に戻っている。

 さっきまでと同じ傷、同じ黒ずみ、同じ数字。


 火も光も、雷も風も、奇跡らしい奇跡もない。

 視界に残っているのは、十円玉と透明定規と、静止した補助線だけだ。

 見た目は何も変わらない。

 それなのに、僕の目は十円玉の下端から戻らない。

 さっき離れたはずの一ミリを、まだ探している。


 僕は十円玉から目を外し、自分の手を見た。


 横撮り用のスマートフォンに手を伸ばしかけて、止める。

 録画は続いている。

 今触れば、机が揺れる。


 映像を確かめたくて、手が先にスマートフォンへ伸びた。

 でも、今は映像を見るより、触る前の状態を残す方が先だ。


 僕は声に出した。


「成功直後、横撮りスマートフォンに手を伸ばしかけた。触る前に止めた。机は揺らしていない。かなり興奮している」


 録音に残る。

 僕の声だけが、少し震えている。


「情けないな」


 情けない。

 でも、今の声がなければ、録画には浮いた瞬間だけが残る。

 震えた声も、伸びかけた手も、同じファイルに入れておく。


 僕はまだ椅子から立たない。

 十円玉は机の上に戻っている。

 今はもう、何も起きていない。

 その時間も撮る。


     ◇


 録画は、そこからさらに二分続けた。

 浮いた瞬間だけを切り取らないためだ。


「十円玉は落下後、二分間変化なし。追加接触なし」


 そこまで声に出してから、スマートフォンと古い端末の録画を止める。

 保存完了の通知は、どちらも普通の表示だった。


 息を吐いた途端、手の冷たさに気づいた。

 背中は汗をかいている。

 口の中は乾いていた。


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