第4話 第一階梯、念動(五)
録音には、僕の呼吸も椅子のきしみも入る。
ただし、アゼルの声はスマートグラスのつるから出ている。
スマートフォンや古い端末のマイクには、ほとんど残らないはずだ。
「僕の声だけ残るな」
「ええ。私の声はほとんど残らないわ」
「あとで都合のいい会話にできるな」
「私に言われたことにできる、という意味ね」
「逆もある。お前が何を言ったか、僕には証明できない」
「ええ。そこは、君の記録には残らないわ」
だから、今の会話そのものは証拠にならない。
僕は机に触れないまま、録画へ向けて短く読み上げた。
「録画端末はネットワーク切断。
スマートグラス音声は録画側に残らない可能性あり。
アゼル発話は、僕の記憶と後で書くメモだけに残る」
まだ何も起きていない。
それでも、動かす前に言っておく必要があった。
僕は膝の上の手を動かさず、録画中の赤い点を見た。
◇
最初の二回は、すぐに失敗した。
一回目は、十円玉を見た瞬間に頭の中で「浮け」と言っていた。
二回目は、影の細さを見て、浮いたと思いかけた。
どちらも十円玉は浮いていない。
一回目は、僕の肩に力が入った。
二回目は、影を都合よく読んだ。
十円玉ではなく、僕の身体と判断のほうが先に動いていた。
僕は失敗のメモを二行で済ませた。
『一回目、「浮け」が先に出た。コップの水面がわずかに揺れた。変化なし。
二回目、影を浮いたように見た。定規、横からの映像、上からの映像に変化なし。』
二行で止める。
細かく書き始めると、もう一回試す口実になる。
それでも、成功したい。
見間違いでも、表示の癖でも、偶然でもなく、浮いたと言いたい。
成功したい気持ちがあるから、どちらの失敗も判断はすぐ濁る。
僕は失敗メモの下に一行足した。
『成功したい気持ちが、見え方に混ざっている。』
「続けるの?」
アゼルが言った。
「続ける。三回目で区切る」
「なら、押し上げようとしないで。念動に必要なのは、力ではなく、手をかける場所よ」
僕は膝の上の手を握り直した。
椅子の背にもたれない。
机に触れない。
息を止めない。
影だけを見ない。
「三回目からは、補助線を一つ出すわ」
「二回失敗したからか」
「ええ。線は答えではないわ。見えない手をかける候補を示すだけ」
「三回目」
自分の声が録音に入る。
十円玉を見る。
スマートグラスの視界に、細い線が一本重なった。
輪郭ではない。
円周の外側をなぞらない。
数字も、傷も、汚れも拾わない。
その線は、十円玉と机が接しているはずの下側だけに出る。
途切れ途切れで、ところどころ薄い。
スマートグラスだけの表示にはなかった線だ。
線が出たからといって、十円玉が動いたわけではない。
僕は「動いた」と言いかけた声を飲み込み、十円玉と机の接点へ視線を戻した。
線の左端が、一瞬だけ薄くなった。
肉眼では何も変わらない。
影も動かない。
定規の目盛りも変化しない。
「今、線が薄くなった」
「追わないで。薄くなった場所だけ覚えて。線だけで決めないで」
苛立った。
決めないまま進むのが、いちばん嫌だった。
視線が補助線だけを追いかけそうになり、僕は奥歯を噛んで十円玉の下端へ戻した。
線は戻っていた。
それでも、さっき薄くなった場所だけが気になる。
薄くなった場所を狙いに行くと、また「浮け」と命じる見方になる。
線を追わない。
浮け、とも言わない。
ただ、右手の指先を差し込むつもりで、見えない手を十円玉と机の境目にゆっくりかける。
右手の親指と人差し指の間に、薄い紙の端のような感覚があった。
十円玉には触れていない。
右手は机から離れている。
触れていないのに、指先だけが何かの端を探っている。
「右手の指先に、何か引っかかった」
「まだつままないで」
「……どうしろと?」
「まずピントを合わせて。それから一ミリだけ持ち上げる」
反射で言い返しかけた。
でも、言い返すと指先が動く。
僕は否定を飲み込み、十円玉に視線を戻した。
息を吐き直した直後、音がした。
十円玉が、机の上でかすかに鳴った。




