第4話 第一階梯、念動(四)
僕は条件の下に一行足した。
『成功したい気持ちはある。』
成功したい気持ちの一行だけ、字が濃くなった。
声に出さなくても、アゼルには届く。
僕が見ているからだ。
消したくなった。
けれど、消せば、成功したい気持ちを隠したまま十円玉へ手をかけることになる。
縁に触れているつもりで、欲しい結果だけを追う。
それは嫌だった。
僕はその一行を残した。
◇
スマートグラスをかける。
イヤーカフは外し、ケースに戻した。
最初に出たのは、スマートグラス本体の標準表示だけだった。
視界の右下、生活用AIの小さなカードが出る位置は空白のままだ。
HoloDock miniも電源を切っている。
アゼルの姿も、今日は表示しない。
見るべきなのは彼女の姿ではなく、机の上の十円玉だ。
スマートグラスの補助機能を、採寸モードに切り替える。
視界の端に、定規の目盛りを拾った細い線が重なった。
机の天板の水平が、わずかに右に傾いている。
室温と湿度は、机の温湿度計の数字をスマートグラスのOCRで拾って表示する。
外部連携は使わない。
定規の目盛り、水平、室温と湿度。
ここまでは、スマートグラス本体の表示だ。
アゼルの補助線は、まだ入っていない。
「アゼルの補助線を入れる前に、この状態を保存する」
「慎重ね」
「スマートグラスだけの表示と、お前の補助線を見分けられるようにする」
「後で私のせいにするため?」
「逆だ。お前のせいにしないために、先にスマートグラスだけの画像を残す」
「なら、その保存が終わるまでは、私の補助線は出さないわ」
僕は、スマートグラスだけの表示を一枚保存した。
これで、アゼルの補助線が入る前の画像は残った。
僕は設定画面を閉じた。
保存した表示には、定規の目盛り、机の水平、室温と湿度だけが残っている。
十円玉は、ただ机の上に置かれている。
「ここから先は、補助線だけを重ねるわ。姿を出すと、君が十円玉ではなく私を見るから」
ここまでは、まだ普通の計測表示だった。
丸い輪郭。
数字。
傷。
汚れ。
どれも見ようと思えば見える。
けれど、アゼルが見ろと言ったのは、丸い輪郭ではなかった。
十円玉が机に触れている下端だった。
「十円玉全体を持ち上げるのか」
「全体をつかもうとすると、押す動きになるわ」
「じゃあ、下をすくうのか」
「すくう、に近いわね。十円玉が机から離れ始めるところに、見えない手をかける」
下からではなく、境目にかけて浮かせる。
見えない手、と言われて、昨夜アゼルに見られた右手を思い出した。
スマートフォンを開く前の手。
今度は、十円玉が動く前の境目を見る。
「本当に浮かせるのか」
「ええ。机から一ミリだけ」
僕は口を閉じる。
アゼルの教え方は、丁寧だ。
けれど、こちらが安心したいところでは止まってくれない。
分からないと言えば、答えは返る。
ただし、僕が欲しい形ではくれない。
「十円玉のどこに手をかけるんだ」
「下端の影がいちばん細く見えるところ。まずは候補でいいわ」
そういう言い方をされると、反論したくなる。
でも、今日は反論するために始めたのではない。
僕は右手を机から離し、膝の上に置いた。
左手も膝の上に置く。
袖が机に触れないよう、肘を少し引く。
横撮り用のスマートフォンを起動する。
録画ボタンはまだ押さない。
上撮りの古い端末も、画面を確認するだけにする。
どちらもネットワークは切ってある。
クラウド保存も、生活用AIの補正も使わない。
「録画を先に始めるのね」
「証拠というより、自分が始めたことを残すためだ」
アゼルはそれ以上言わなかった。
スマートフォンの赤い点を見る。
机から離した両手を見る。
両手が机から離れているところが録画に残れば、あとで自分で始めた事実までは消せない。
僕は録画を始めた。
スマートフォンの小さな赤い点が点く。
古い端末にも録画中の表示が出る。
保存通知はまだ出ない。
録音には、僕の呼吸も椅子のきしみも入る。
ただし、スマートグラスのつるのスピーカーから出るアゼルの声は、録画にはほとんど残らないはずだ。
「僕の声だけ残るな」
「ええ。私の声はほとんど残らないわ」




