第4話 第一階梯、念動(三)
仕事の言葉では呼べない。
「……本当に十円玉を浮かせられるのか」
「ええ。第一階梯は念動。見えない手で、目の前の物にほんの少し触れて、動かす」
僕は十円玉を見た。
浮くかどうか。
成功するかどうか。
目はもう十円玉の上を探していた。
「最初は、一ミリでいいわ」
「押し上げるのか」
「できるわ。でも、十円玉だけを見ていると、押し上げる動きが混ざる」
「じゃあ、どうする」
「先に、十円玉と机の境目に手をかける」
僕は十円玉の端へ視線を下げた。
「十円玉そのものには触らないのか」
「最初から本体へ力を当てると、攻撃に近くなるわ。まずは、支えている境目に触れるの」
「境目」
「どこに触れて、どちらへ動かすか。そこが曖昧だと、ただ押しただけになるわ」
「それが、魔術で最初に教わることなのか」
「ええ。まずは、縁に手をかけるところからよ」
縁。
その言い方なら、まだ聞ける。
十円玉と机のあいだ。
そこへ手をかけて、一ミリだけ浮かせる。
ただ、分かることと、納得することは違う。
「魔術って、世界に命令する技術じゃないのか」
「命令ではないわ。世界がすでに持っている癖を読む技術よ」
「世界の癖?」
「君たちはそれを法則と呼ぶわ。物と物が触れる場所では、その法則がいちばん見えやすい。私たちはそこを縁と呼ぶ」
十円玉と机が触れている場所を、アゼルはただの接点とは呼ばなかった。
聞き慣れない言い方なのに、アゼルは当然のことのように言った。
僕は十円玉の下端を見る。
火も盾も出てこない。
十円玉と机の境目だけが、目に残った。
「今日やるのは、その縁に触れて浮かせることか」
「ええ。第一階梯は、そこから始める」
「第一階梯なら、第二階梯もあるのか」
「あるわ」
「何が変わる」
ある、と聞いた時点で、僕はもう次を聞いていた。
興味が出た、と認めるのは癪だった。
それでも、第一階梯で十円玉を浮かせられるなら、第二階梯で何が変わるのかは知りたかった。
「第二階梯では、見つけた縁で一つだけ現象を起こすわ。火を点ける。盾を張る。出血を輪で押さえる」
アゼルは、そこで止めた。
理由はすぐ分かった。
これ以上例を聞けば、僕は十円玉から目を離す。
火。
盾。
止血。
実際に扱えるとは思わない。
それでも、十円玉より派手な絵が頭に浮かびかける。
「第二階梯は、今日はやらないのか」
「君は火という言葉を聞いたら、火の形を先に思い浮かべるから」
「なぜ決めつける」
「なら、十円玉を見たまま反論して」
言い返そうとして、僕は黙った。
視線は、本当に十円玉から外れかけていた。
頭の中では、もう青い火の方が先に形を持っている。
「今日は十円玉だけよ。見えない手を縁にかけて、十円玉を一ミリ浮かせる。そこに集中して」
言い切られた。
部屋には僕しかいない。
牧野も、同席者もいない。
このメモ帳には、まだ「魔術」と書けない。
牧野に見せるかもしれないからだ。
けれど、この部屋でアゼルから教わるものを、別の名前でごまかしても始まらない。
木曜深夜に署名する前なら、僕は魔術という言葉だけで考えるのを止めていたと思う。
でも、今は違う。
魔術を教わる契約をした。
だから、魔術という言葉で止まっている場合ではない。
怖いのは、教わる途中で、署名や印、血や痛みがいつの間にか手順に混ざることだった。
「教わる。けど、始める前に、やらないことだけ決める」
まず、十円玉を選んだ理由をメモ帳に書く。
『軽い。
映像で見える。
壊れにくい。
なくしても惜しくない。
家にあった。』
アゼルへ説明するためではない。
後で、結果に合わせて理由を並べ替えないためだ。
これはアゼルの手順ではなく、僕が実験記録で身につけた癖だった。
「君は、後で記録を読む自分も疑うのね」
「疑う。成功したら、たぶん理由を都合よく並べ直す」
それも書く。
成功したい気持ちと同じで、自分を疑う癖も手つきに出る。
隠せば、かえって危ない。
僕はメモ帳の余白に『成功後の自分を信用しない』と書き足した。
それから、やらないことを声に出した。
「新しい署名はしない。左手の印を増やさない。血も痛みも使わない」
「ええ」
アゼルの返事は短かった。




