第3話 悪魔はパーソナルAIのフリをしている(十)
僕は冷蔵庫の水を飲み、ベッドに腰を下ろした。
HoloDockのアゼルは、帰宅後の提案を出す。
> 入浴、短め
> 水分補給、継続
> 仮眠、20分
> 夕方以降の仕事、非推奨
> 個人スマホの業務プロファイル、今日は開かない
最後の一行で、僕は目を上げた。
「その一行は消せ」
「今日は開かない方がいいわ」
「分かってる。だから消せ」
提案欄から、最後の一行だけが消えた。
消えても、個人スマホの中に業務プロファイルが残っていることは変わらない。
スマホが震えたのは、その時だった。
牧野からのメッセージ。
「開かないの?」
「開く」
「開くなら早く。迷う方が疲れるわ」
「急かすな」
画面を開く。
今日はお疲れさまでした。
無理しないでください。
六日後、一周です。
短い。
余計な説明を足さない。
最後の「一周です」だけは牧野の圧が残っていた。
アゼルの返信候補が三つ出る。
> ①了解です。
> ②ありがとうございます。
> ③またお願いします。
どれも悪くない。
どれも、僕が言いそうにない。
僕は候補を使わず、入力欄に自分で打った。
今日は助かりました。
六日後、行きます。
一周を超える分は、交渉させてください。
打っている間、アゼルは候補を足さなかった。
入力欄の端だけが、急かさず静かに光っている。
送信すると、HoloDockの光の中でアゼルが短く言った。
「今のは君の文だったわ」
僕はベッドに倒れ込んだ。
「言わなくていい。そう言われると、お前に認められたみたいになる」
「なら、どうすればよかったの」
「黙っていればよかった」
数秒、アゼルは返事をしなかった。
それから、珍しく素直に言った。
「覚えておくわ」
照明と空調が昼寝用に落ちていく。
そこまではただの調整だ。
アゼルが何も言わないまま、部屋の明るさや空調まで変える。
世話をされているのか、先に手を打たれているのか、境目が分からなくなる。
僕はベッドに横になったまま、天井を見た。
「今日の見物とやらは、満足したか」
「一部はね」
「一部?」
「駅の案内も、紙のメニューも、支払いの表示も、記録に残るのは人が選んで操作した後なのね」
「褒めてるのか」
「保留ね」
「都合のいい言葉だな」
「君たちもよく使うわ」
たしかに、研究所ではよく使う。
保留、結果、傾向、仮説、検証、評価。
書類の見出しにすれば、本来なら止めたいものでも机の上に載せられる。
「牧野さんは、気づくと思うか」
「何に気づくと思うの」
「お前が、普通のAIじゃないことに」
短い間があった。
「普通のAIではない、という引っかかりを、簡単には忘れないわね」
「覚えられても面倒だ」
「でも、彼女はすぐ断定しないわ」
「その方が厄介だ」
「断定されない方が?」
「断定された方が、反論できる」
アゼルは、一拍だけ黙った。
僕は目を閉じる。
眠気が来ていた。
「二十分後に起こすわ」
「勝手に決めるな」
「三十分だと夜の睡眠に影響するわ」
「二十五分」
「二十二分」
「交渉してくるな」
「妥協案よ」
僕は、そこで息だけで笑った。
「二十二分でいい」
「二十二分なら許すわ」
「そこで交渉成立みたいに黙るな」
今度は、アゼルは何も足さなかった。
HoloDockの光が、眠る前の明るさまで落ちる。
ここで光が落ち、二十二分後にアラームだけが鳴る。
それだけなら、ただの昼寝支援で済む。
本当にそれだけで済むのか、試したくなった。
僕は試しに、HoloDockの電源アイコンへ指を伸ばした。
スマートグラスは机に伏せてある。
これで切れば、部屋のどの画面にもアゼルは出てこない。
「待って」
指が止まった。
「まだ止める理由があるのか」
「業務プロファイルを開きかけたわね」
「開かない」
「なら、どうして電源を切る前に、右手がスマホへ戻ったの」
僕は返事に詰まった。
ベッド脇の台には、個人スマホが置いてある。
業務プロファイルの通知は消してある。
ログにも、予定にも、今から開くとは書いていない。
それでも、僕の手は一度スマホへ戻りかけていた。
「……そこまで見るな」
「見えたものを、見なかったことにはできないわ」
「どこにも出てないだろ」
「だから、ログではなく、手の動きの話をしているの」
電源アイコンから、僕は指を離した。
黒い画面に、途中で止まった自分の指が薄く映っている。
開こうと思ったわけではない、と言うことはできる。
けれど、そう言う前に手が動いたことは、もう否定できなかった。
端末のログに残るのは、起床支援、経路案内、食事提案、仮眠提案。
記録されるのは、その数項目だけだ。
けれど、どれも僕が操作した後の話でしかない。
アゼルが見ているのは、その前だった。
返信をためらった間。
候補を選ばず、返信欄に触れた親指。
案内を切ったまま歩いた数秒。
業務プロファイルを開く前に、スマホへ伸びかけた右手。
僕が言葉にする前に、右手が動いたところを見ている。
どれも、予定にも通知にもならない。
言い訳を作る前に、身体が先に動く。
普通の支援なら、業務プロファイルが開いた後で注意を出す。
アゼルの声は、黒い画面に指が届く前に入った。
枕元ではランニングウェア姿で。
外ではスマートグラスの端から。
帰宅後はHoloDockの光の中から。
起きる時刻を決める。
歩く道を選ぶ。
昼食の候補を並べる。
二十二分の仮眠を差し出す。
業務プロファイルへ戻りかけた指だけ、先に止める。
外の人には、気の利くパーソナルAIにしか見えない。
今日一日、僕も何度も助けられた。
だから、もう使わないとは簡単に言えない。
その相手が、指が画面へ届く前のためらいにまで声をかけてくる。
それが、本当に困る。
悪魔は、パーソナルAIのフリがうますぎた。




