第3話 悪魔はパーソナルAIのフリをしている(九)
座席に座ると、身体の重さが一気に出た。
走っている間より、止まった後の方が疲れる。
窓に映った目元は、朝よりましだが、まだ眠そうだった。
「帰宅後、二十分の仮眠よ」
「分かってる」
「夕方以降は仕事をしない」
「禁止だと、従っただけになる」
「じゃあ、やめておいた方がいい」
「それならいい」
電車の中でも、外側ランプ、イヤーカフ、手首端末の光が別々のタイミングで動いていた。
学生の視線はグラスの右上へ流れ、隣の会社員はイヤーカフに小さく頷く。
向かいの年配の女性は、次の駅のアナウンスが流れても、すぐには立たなかった。
手首端末に緑の光が短く灯ったのは、電車が減速し、ドア前の人が一歩詰めたあとだった。
女性はそのタイミングで、膝の上のバッグを持ち直した。
「忘れ物だけじゃないのね。立つタイミングまで、もう端末が先に知らせてくる」
「言い方」
「忘れ物、道順、立つタイミング。次に、会話、金銭、睡眠。忘れないための補助が、選ぶ前に出てくるわ」
「それは悪いことじゃない」
「悪いとは言っていないわ」
「じゃあ、何が問題なんだ」
「先に楽な方が目に入ることよ。次の駅で立つ、こっちへ行く、この方法で払う。別の選択肢を選びにくくなる」
「それでも選ぶのは本人だろ」
「ええ。だから記録上は、本人の選択になる」
僕は返事をしなかった。
断る理由は、画面には出ない。
次の候補だけが横に並ぶ。
候補にないものを選び続けるには、思ったより気力がいる。
朝なら、それを単なる反発だと思えた。
帰りの電車では、そう言い切れなかった。
候補を選ぶ前に、一度止まる。その一拍を残しておきたいだけだ。
牧野の前でも、候補を選ぶ前に何度か指を止めていた。
◇
最寄り駅に着くころには、まぶたが重くなっていた。
朝よりはましだ。顔色も、人前に出られる程度には戻っている。
疲れているのに、部屋へ戻る足取りだけは朝より軽い。
朝の自分には、もう言い訳しにくい。
グラスは自宅までの日陰が多い道を出した。
僕は何も言わず、その道を選ぶ。
細い公園の横を通ると、親子が二組いた。
子どもの腕には見守り用の細いバンドが巻かれていた。
母親のスマートグラスの外側ランプが赤く点いている。
遊具の横には利用年齢と注意事項が薄く浮いていたが、子どもはそんな表示を見ない。
すべり台を逆から登ろうとして、母親に止められている。
「表示があっても、逆から登るのね」
「子どもだからな」
「大人もやるわ」
「否定できないな」
ベンチの横では、老人が小さな投影端末を開いていた。
端末の上で、女の子の立体映像が手を振っている。
それを見て、アゼルは黙った。
「こういうのも見ておくのか」
「こういうのほどね」
「何を見てる」
「離れていても、同じ場所にいたがるのね」
「……お前が言うと変だな」
「何が変なの」
「お前も離れてないだろ。ずっと右下にいる」
アゼルは、そこで何も言わなかった。
家まではもう近い。
スマートグラスは帰宅後の手順を小さく出した。
> 水
> 入浴
> 仮眠
朝ほど反発は出なかった。
帰りは靴を脱ぐ前から足が重い。
重くなったまぶたも、仮眠を否定しなかった。
「それも、今日外に出た分よ」
「心を読むな」
「口元と歩き方がそう言っているわ」
「そこまで見るな」
アゼルの声は、先ほどの警告よりやわらかかった。
疲れている時にどんな声なら聞いてしまうかまで覚えられると、また断りにくくなる。
◇
玄関の前に立つと、鍵が開き、照明と空調が静かに動き出した。
冷蔵庫の水を飲むよう促す表示が出る。
僕はスマートグラスを外した。
予定も、栄養評価も、帰宅ルートも、牧野の名前も視界から消える。
急に部屋が狭くなる。
外で見ていた案内線も、店先のカードも、牧野の横顔も消えて、机とベッドと壁だけが残った。
その代わり、枕元のHoloDockが起動した。
薄い光の中に、普段着のアゼルが現れる。
「帰ってすぐそこに立たれると、外出が終わらない」
「家ではここがいちばん邪魔にならないわ」
「邪魔かどうかの問題じゃない」
朝はここから外へ出るのを渋っていた。
今は、同じ部屋へ外から戻ってきたばかりだ。
運動用の服は汗で少し重く、スマホには牧野との予定が一つ増えていた。
研究所、自宅、地下鉄、コンビニ。
朝、アゼルが並べた移動履歴が頭に戻る。
たしかに狭い。




