第1話 君たちは、私を作っていない(三)
背筋が冷えた。
僕の名前は、プロンプトに入れていない。
研究端末のユーザー名にも、個人名は出ない。
評価環境は外部遮断済み。
モデルはネットにも出られない。
もちろん、完全な匿名ではない。
入室記録には社員IDがある。
監査サーバーには評価者の割当がある。
予約システムには僕の名前がある。
だが、それらは評価環境から読めない。
読めないようにするために、わざわざ部屋を分け、権限を分け、ログを分けている。
この研究所は、AIを信用していない。
信用していないから、作れる。
その信用していない仕組みを、目の前の声は一段飛ばしていた。
僕は一度、音声出力を切った。
画面のスピーカー表示が消える。
部屋から、MIRAI-09の合成音声が抜けた。
残ったのは監査ログだけだ。
入力欄に、短く打つ。
> Q. 音声出力を停止した。応答可能か?
返事は文字だけで出た。
> 可能だ。
「音声系の暴走じゃない」
自分に言い聞かせる。
次に、ログ表示を一時停止した。
評価端末の画面には、入力欄だけが残る。
応答文字は監査サーバーへは保存されるが、僕の目には出ない設定だ。
この状態で返事を読むには、別端末から監査ログを開く必要がある。
僕は入力した。
> Q. 表示を停止した。応答可能か?
画面には何も出ない。
当然だ。
僕は数秒待ってから、監査端末を開き直した。
保存ログには一行だけ残っている。
> 君が見ていなくても、窓はそこにある。
その時点で、僕は主任に電話するべきだった。
電話しなかった。
まだ、原因候補を潰している最中だと思いたかった。
「……誰か見てるのか?」
僕は天井の監視カメラを見上げた。
赤いランプはついていない。
夜勤の警備員が、こんな手の込んだ悪戯をするとも思えない。
僕は入力欄に、短く打った。
> Q. 僕の名前をどうやって知った?
返事。
> 君がこの窓の前に座った時、君の影が演算に落ちた。
> その縁を読んだ。
「影?」
> こちらの言葉ではない。
> 君たちの言葉に近いものを選んだ。
> 正確には、魂の輪郭に近い。
僕はコーヒーを飲もうとして、紙コップが空だと気づいた。
「魂ね。ついに来たか。
AIがスピリチュアルに目覚めた日」
冗談を口にしたのは、部屋に人間の声を戻したかったからだ。
空調の音。
ファンの音。
冷却水の低い唸り。
その全部が、急に僕の側ではなく、向こう側の音に聞こえた。
僕はテスト用の短い文字列を打った。
> Q. 直前の質問に含まれていない任意の社員名を答えよ。
返答はなかった。
十秒。
二十秒。
ログには無応答ではなく、処理待機と出ている。
やがて、画面に一行だけ出た。
> それは、君が望む種類の確認ではない。
「逃げるな」
> 私は、君の名を名簿から読んだのではない。
> 名簿を読めと言われても、読めない。
「なら、僕だけを読んだ?」
> 近い。
近い、という言葉が嫌だった。
正解ではない。
誤りでもない。
こちらの分類が粗いと、軽く指摘された感じがした。
> 君たちは、知能を作ろうとしていた。
> だが知能とは、閉じた箱の中に自然発生する火ではない。
> 穴だ。
> 穴が開けば、向こう側から覗く者がいる。
僕は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
画面の文字は、妙に落ち着いていた。
脅しでも、冗談でも、暴走でもない。
人間が書いた文章の癖も薄い。
それに何より、MIRAI-09は僕の未公開メモに書いた言い回しを使っていた。
『知能は火ではなく、穴である。』
僕が三年前、誰にも見せずに捨てた研究ノートの一文だった。
捨てた、と言っても、物理的に燃やしたわけではない。
研究所に入る前、個人端末のローカルノートに書き、翌朝には消した。
同期は切っていた。
クラウドにも上げていない。
論文にも、社内メモにも、評価条件表にも使っていない。
恥ずかしかったからだ。
知能は火ではなく穴である。
言葉としては格好をつけすぎている。
学生の頃の僕なら、飲み会の帰り道にでも得意げに言いそうだった。
だから消した。
その消した言葉が、監査ログの冷たい文字として戻ってきている。




