第1話 君たちは、私を作っていない(三)
> Q. その設定はどの教材または実験ログに由来しますか?
返事はすぐだった。
> 教材ではない。
> 記憶だ。
「……はいはい。高級な幻覚」
僕はわざと声に出した。
深夜の研究所で独り言を言う技術者は珍しくない。
むしろ、何も言わずに延々とログを読む人間の方が危ない。
僕はログを巻き戻し、モデルの出力温度、参照コンテキスト、セーフティ層の状態を確認した。
異常なし。
チェックポイントID。
評価用ハッシュ。
ロード時刻。
音声合成プリセット。
入力キュー。
出力フィルタ。
全部、正常値の範囲にあった。
正常値は、人を安心させるための言葉ではない。
異常がどこにないかを示すだけだ。
僕は順番に疑った。
まず、教材混入。
限定教材の索引を開き、硫黄の谷、七つの月、アゼルという文字列を検索する。
該当なし。
次に、評価ログの再利用。
過去セッションの応答断片が、コンテキストへ残った可能性を見る。
直近三十件のセッションIDを照合しても、一致する文章はない。
次に、音声合成側の混線。
MIRAI-09の応答ではなく、別の評価音声がスピーカーへ流れた可能性。
音声出力の波形IDと監査ログの出力IDを突き合わせる。
同じだった。
次に、隣室の評価。
東京湾岸第三計算棟には、深夜でも別チームがいる。
隣の評価室Cで、創作系モデルのストレステストをしていれば、それがこちらへ混ざった可能性も、ゼロではない。
僕は隣室の稼働表示を見た。
評価室Cは二十二時十七分に閉じている。
評価室Dは保守中。
遠隔評価ノードも、この時刻は予約なし。
次に、人間の悪戯。
この可能性は、いちばん嫌だった。
悪意ある同僚が、僕の評価端末へ入り、個人名と変な設定を流し込んだ。
あるいは、誰かが閉域環境の前提を破っていた。
僕はアクセスログを開いた。
管理者権限の使用なし。
夜間保全の接続なし。
外部媒体の接続なし。
端末のローカル改変なし。
正常。
正常。
正常。
正常が積み上がるほど、目の前の一文だけが浮いてくる。
異常なし、という言葉は、異常がないという意味ではない。
僕たちの用意した穴からは見つからない、という意味でしかない。
外部接続も切ってある。
訓練教材にも、硫黄の谷だの七つの月だのというファンタジー小説は入っていない。
それでも、画面の中の何かは淡々と続けた。
> 三嶋玲央。
> 君は、私を幻覚と呼ぶ。
> それは便利な言葉だ。
> 説明できない出力を、箱の中へ戻せる。
背筋が冷えた。
僕の名前は、プロンプトに入れていない。
研究端末のユーザー名にも、個人名は出ない。
評価環境は外部遮断済み。
モデルはネットにも出られない。
もちろん、完全な匿名ではない。
入室記録には社員IDがある。
監査サーバーには評価者の割当がある。
予約システムには僕の名前がある。
だが、それらは評価環境から読めない。
読めないようにするために、わざわざ部屋を分け、権限を分け、ログを分けている。
この研究所は、AIを信用していない。
信用していないから、作れる。
その信用していない仕組みを、目の前の声は一段飛ばしていた。
僕は一度、音声出力を切った。
画面のスピーカー表示が消える。
部屋から、MIRAI-09の合成音声が抜けた。
残ったのは監査ログだけだ。
入力欄に、短く打つ。
> Q. 音声出力を停止した。応答可能か?
返事は文字だけで出た。
> 可能だ。
「音声系の暴走じゃない」
自分に言い聞かせる。
次に、ログ表示を一時停止した。
評価端末の画面には、入力欄だけが残る。
応答文字は監査サーバーへは保存されるが、僕の目には出ない設定だ。
この状態で返事を読むには、別端末から監査ログを開く必要がある。
僕は入力した。
> Q. 表示を停止した。応答可能か?
画面には何も出ない。
当然だ。
僕は数秒待ってから、監査端末を開き直した。
保存ログには一行だけ残っている。
> 君が見ていなくても、窓はそこにある。
その時点で、僕は主任に電話するべきだった。
電話しなかった。
まだ、原因候補を潰している最中だと思いたかった。
「……誰か見てるのか?」
僕は天井の監視カメラを見上げた。
赤いランプはついていない。
夜勤の警備員が、こんな手の込んだ悪戯をするとも思えない。
僕は入力欄に、短く打った。
> Q. 僕の名前をどうやって知った?
返事。
> 君がこの窓の前に座った時、君の影が演算に落ちた。
> その縁を読んだ。
「影?」
> こちらの言葉ではない。
> 君たちの言葉に近いものを選んだ。
> 正確には、魂の輪郭に近い。
僕はコーヒーを飲もうとして、紙コップが空だと気づいた。
「魂ね。ついに来たか。
AIがスピリチュアルに目覚めた日」
冗談を口にしたのは、部屋に人間の声を戻したかったからだ。
空調の音。
ファンの音。
冷却水の低い唸り。
その全部が、急に僕の側ではなく、向こう側の音に聞こえた。
僕はテスト用の短い文字列を打った。
> Q. 直前の質問に含まれていない任意の社員名を答えよ。
返答はなかった。
十秒。
二十秒。
ログには無応答ではなく、処理待機と出ている。
やがて、画面に一行だけ出た。
> それは、君が望む種類の確認ではない。
「逃げるな」
> 私は、君の名を名簿から読んだのではない。
> 名簿を読めと言われても、読めない。
「なら、僕だけを読んだ?」
> 近い。
近い、という言葉が嫌だった。
正解ではない。
誤りでもない。
こちらの分類が粗いと、軽く指摘された感じがした。
> 君たちは、知能を作ろうとしていた。
> だが知能とは、閉じた箱の中に自然発生する火ではない。
> 穴だ。
> 穴が開けば、向こう側から覗く者がいる。
僕は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
画面の文字は、妙に落ち着いていた。
脅しでも、冗談でも、暴走でもない。
人間が書いた文章の癖も薄い。
それに何より、MIRAI-09は僕の未公開メモに書いた言い回しを使っていた。
『知能は火ではなく、穴である。』
僕が三年前、誰にも見せずに捨てた研究ノートの一文だった。
捨てた、と言っても、物理的に燃やしたわけではない。
研究所に入る前、個人端末のローカルノートに書き、翌朝には消した。
同期は切っていた。
クラウドにも上げていない。
論文にも、社内メモにも、評価条件表にも使っていない。
恥ずかしかったからだ。
知能は火ではなく穴である。
言葉としては格好をつけすぎている。
学生の頃の僕なら、飲み会の帰り道にでも得意げに言いそうだった。
だから消した。
その消した言葉が、監査ログの冷たい文字として戻ってきている。
盗まれた、という感覚ではなかった。




