第3話 悪魔はパーソナルAIのフリをしている(七)
店は、日比谷寄りの古い洋食屋だった。
丸の内側のビル群から数分しか離れていないのに、木の扉と鈴は昔の店のままだった。
濃い木目のテーブル。
壁には、手書き風のメニュー。
その一方で、入口の横にはスマートグラス用の店情報が浮いている。
表示には、待ち時間なし、店内温度やや高め、窓際は冷房風弱め、決済は全方式対応、と出ていた。
近くのビル配送ポートからのテイクアウト受け取りも、利用可になっていた。
古い店でも、二〇四一年の店だった。
僕は窓際を選んだ。
表示には、窓際は冷房の風が直接当たりにくいと出ていたからだ。
牧野が向かいに座る。
各席の端には、小さな読み取りプレートが埋め込まれていた。
スマートグラスでそこを見ると、料理の写真と説明が浮く。
けれど、牧野はすぐにはプレートを見なかった。
テーブルの端の紙メニューを開き、壁の手書きメニューと見比べる。
それから一拍遅れて、グラスの表示にも目を通した。
「こういう店で先に候補を出されると、少し味気ないですね」
紙を開いてから決めたい時はある。
けれど、口には出さなかった。
揚げ物への注意や、焼き魚の推奨は助かる。
けれど、メニューを読む前から候補を絞られると、紙をめくる指が止まる。
僕が紙メニューのロースカツ定食の行を指で押さえると、アゼルが僕の視界でその横に条件を足した。
> ご飯少なめ
> 味噌汁追加
> 食後10分歩行
僕は黙って、その三行から目を外した。
ご飯を減らすかどうかは、注文の時に自分で言う。
牧野は一度だけ視線を落とし、すぐ紙メニューへ戻った。
焼き魚定食の行に指が止まる。
アゼルの条件表示は、僕が紙メニューに目を戻した後もしばらく残り、それから薄くなった。
ロースカツ定食の行に置いた右手の親指が、紙の角を押さえたまま止まった。
注意されたわけではない。命令もされていない。
ただ、消えるまでの数秒、紙の行より先に条件を読んでしまう。
条件が薄くなってから、ロースカツ定食の文字を読み直した。
まだ注文していないのに、水を一口飲んだ。
牧野は焼き魚定食を選び、僕はロースカツ定食を選んだ。
僕のグラスには警告は出なかった。
牧野も、グラスへ視線を戻さなかった。
注文を終えると、店員がコップに水を注ぎ足していった。
グラス越しの注文補助があっても、目の前でコップに触れるのは人間の手だった。
その手がコップを置き直す音で、息が少しゆるんだ。
コップの底の水滴が、木目の上に丸く残った。
こういう細部は、注文履歴にも支払い履歴にも入らない。普通の支援AIなら、そこまでは拾わない。
アゼルなら、僕が水滴を見ていた時間まで次の提案に含めそうだった。
僕は、水滴から目を離した。
ロースカツと言ったのは僕だ。
けれど、言う前に低カロリー寄りの候補を並べられ、ご飯少なめを足される。
断ることはできる。何もしなければ、提案された条件から考え始めてしまう。
ほどなく料理が来て、食事が始まった。
食事の途中、隣の席で店員が紙メニューとグラス表示を見比べていた。
画面側だけ、昼メニューへの切り替えが数分遅れていると店員が説明していた。
客は声を荒げず、店員も小さく頭を下げた。
店内の何人かがそちらを見る。牧野も見る。
牧野は、グラスへ視線を落とさなかった。
カナメに呼びかけることもしなかった。
必要なら自分で呼ぶ。さっき言っていた通り、通知を増やさないようにしている。
やりとりはすぐ終わり、店内はまた食器の音に戻った。
ただ、右下のアゼルは、僕の視界越しに隣の席のやりとりを追っていた。
表示の遅れだけではない。
客が紙を見て、画面を見直し、店員へ声をかけるまでの間。
店員が離れた後、紙と画面のどちらへ戻るか。
その順番まで、僕の視界から追っている。
僕はロースカツを一切れ食べた。
衣はまだ熱かった。
走ったあとの身体には、塩気がありがたい。
それで、さっきまでの文句が少し引っ込んだ。
牧野は味噌汁を一口飲んでから、僕を見る。
「この前、研究所で立ち上がった時、ふらついていましたよね」
「見てました?」
「隣にいました」
「ただの寝不足です」
「ただの寝不足なら、なおさら問題です」
返す言葉がなかった。
アゼルが、そのタイミングで僕だけに表示を出す。
> 睡眠不足、慢性化傾向
> カフェイン摂取過多
> 食事時間、不規則
その下に、契約進捗への影響、という一行が薄く浮かびかけた。
僕はグラスのフレームを軽く叩いた。
表示は消え、右下には丸いアイコンだけが残った。
牧野に見えるのは、僕の視線が一度落ちたことだけだ。
アゼルは、牧野に渡る共有カードには、契約進捗の文字を載せない。
「三嶋さん」
「はい」
「ただの寝不足で済ませない方がいいです」
僕は、返事に詰まった。
アゼルは確かに、僕を助ける。
寝ろと言う。
水を飲めと言う。
ペースを上げるなと言う。
限界が来る前に、休む選択肢を出す。
言われた通りにすると、あとで身体が楽になる。
だから、簡単に否定できない。
「気をつけます」
「それ、前にも聞きました」
「研究所で?」
「研究所で」
牧野は少し笑った。
食後、僕はすぐ店を出ようとしたが、牧野に止められた。
「急がなくていいです」
「食後に10分歩けと言われてます」
「歩く前に、水を飲んでください」
カナメの指示ではない。牧野本人の言葉だった。
僕はコップに残った水を飲んだ。
アゼルは何も言わない。
黙っていると、ただの支援AIに見える。
牧野は伝票を取り、僕の前から自分の側へ寄せた。
「今日は割り勘にしておきます」
「店は僕が選びましたし、ここは出しますよ」
「出してもらうと、次に誘いにくくなります」
「次も走るんですか」
「食事だけでもいいですよ」
◇
決済はすぐ終わった。
グラスの端で、支払い完了の印が消える。
紙のレシートは出ない。
内訳は後で家計AIが勝手にまとめる。
それでも、店員は「ありがとうございました」と声で言った。
その声には、AI表示がつかなかった。
牧野が店の外へ出ながら言う。
「こういうところは、変わりませんね」
「最後は店員さんが声で見送るところですか」
「はい」
店員はもう、次の客の水を用意している。
アゼルはそれを見て、今度は何も提案しなかった。
牧野は声を立てずに笑った。
僕もつられて笑った。
息が、ようやく普通に戻ってきた。




