第3話 悪魔はパーソナルAIのフリをしている(六)
言い返せなかった。
「じゃあ、次はいつ皇居ランしますか?」
「そこへつなげないでください」
牧野は肩の力を抜いて笑った。
仕事中に記録を追う時より、目の動きが少し遅かった。
皇居外苑から行幸通りへ抜ける途中、広場に休日向けの実証区画が開かれていた。
行幸通りの向こうには東京駅の赤レンガ、手前にはガラスのオフィスビル。
石と芝生とビルの低層部のあいだに、白いテントと低い誘導ポールが並んでいる。
看板には、丸の内エリア回遊実証の文字があった。
新しいウェアラブル端末、骨伝導イヤーカフ、子ども向け見守りAI、睡眠改善用の枕元HoloDock。
その横を、フード配送用の小さなロボットが、足首ほどの高さの車体で静かに曲がっていく。
白いテントのロゴはどれも大きく、スタッフ端末も配布用の紙袋も、色が揃っていた。
それでも、ランナーや観光客は足を止め、日陰の案内や休憩スペースの表示を見ている。
グラス越しに見ると、各ブースの入口近くにAI名刺が浮く。
AI名刺には、体験可、資料送付可、待ち時間三分、と出ていた。
受付に声をかける前に、寄るか、資料だけ送ってもらうかを選ぶ形になっている。
呼び込みの声より先に、カードがこちらの足を誘導していた。
「こういうの、避けますか」
牧野が聞いた。
「今日は避けます。捕まると長いので」
牧野は肩の力を抜いた。
「そこまで嫌ですか」
「休日に健康と睡眠の展示に捕まりたくありません」
「分かります。今見ると、仕事になります」
分かってくれるのか。
その一言だけで、肩の力が抜けた。
牧野は一度だけ視線を落とし、すぐ戻った。
「私の方には、資料だけ受け取る案が出ました」
「受け取るんですか」
「今日はやめておきます」
牧野は、それ以上その話を広げなかった。
アゼルの表示も消えている。
けれど、右下のアバターはまだ展示の方を向いていた。
寄るつもりはない。
その意思表示のつもりで、僕は表示を閉じた。
展示ブースの前を通り過ぎる時、看板の横にアバターがいた。
睡眠改善HoloDockのアバターが、営業用の笑顔でこちらへ軽く会釈した。
グラスの近接共有に反応した営業用の会釈だ。
こちらが立ち止まらなければ、それ以上追ってこない。
自販機の前に立つと、アゼルが表示を出した。
> スポーツドリンク半量
> 水半量
> カフェイン非推奨
僕は水を買った。
牧野も一度だけ視線を落としてから、水を選んだ。
牧野は、それ以上何かを確認する動きを見せない。
僕も表示を閉じた。
アゼルのアバターは、いつの間にか街歩き用の服へ戻っていた。
心拍とペースの表示は隅に退き、昼食候補と徒歩時間が薄く出る。
走り終えた身体より先に、画面だけが食事へ進んでいた。
◇
昼食の候補画面が、僕の右下に開いた。
朝、自分で送った「肉のある店」という条件は、もう入っている。
牧野も、視界の端を一度だけ見て、すぐ顔を上げた。
「私は魚もある店だと助かります」
「肉と魚の両方がある店ですね」
「はい。今日の目的は健康ですから」
僕は検索条件に、魚もある店を足した。
> 肉料理あり
> 焼き魚あり
> 徒歩十分以内
> 待ち時間少なめ
その条件なら、洋食屋も和定食も残る。
けれど、アゼルが僕の表示に先に出した食事候補は、玄米定食、鶏むね肉のサラダ、低脂質スープだった。
僕は食事候補を無言で閉じた。
走ったあとに、低カロリー寄りの候補だけじゃ足りない。
アゼルは一拍置いてから、地図を切り替える。
> 洋食屋
> ロースカツ定食あり
> 焼き魚定食あり
> 徒歩八分
> 待ち時間なし
僕はその候補を残した。
牧野が横で小さく笑った。
「決まりました?」
「洋食屋にします。肉も魚もあるので」
「ちょうどいいですね」
「走ったあとですから」
店の前で、僕は足を止めた。
古い看板には、洋食、とだけ書いてある。
その横に、グラス用の案内が浮いていた。
待ち時間なし、現金・電子決済対応、ランナー利用多め。
食後の徒歩ルートあり。
古い木の看板の横に、グラスが待ち時間や決済方法を足している。
牧野は店先の紙メニューを先に見ていた。
紙で店の出し方を見てから、グラスで補足を見る。
牧野は、紙をめくってから表示で補う順番を崩さない。
「先に紙を見るんですね」
「店の人が何を見せたいかは、紙の方が分かることがあります」
「カナメは、何を出してるんですか」
「栄養と混み具合だけです。メニューを決めるところまでは出しません」
「徹底してますね」
「出されると、先にそちらを見てしまうので」
牧野はそう言って、笑った。
僕は店の扉に手をかけた。
ドアの鈴が小さく鳴る。
その音には、何の表示もつかなかった。入口で初めて、目の端が静かになった。
木の床が、靴底の下できしむ。
店員が水の入ったコップを置く音も、湯気の匂いも、グラスのおすすめ表示には出ない。
それがよかった。
店は、日比谷寄りの古い洋食屋だった。
丸の内側のガラスのビル群から数分しか離れていないのに、木の扉と鈴だけが周りのビルより古く見える。
古い木目のテーブル。
壁には、手書き風のメニュー。
その一方で、入口の横にはスマートグラス用の店情報が浮いている。
表示には、待ち時間なし、店内温度やや高め、窓際は空調良好、決済は全方式対応、と出ていた。
近くのビル配送ポートからのテイクアウト受け取りも、利用可になっていた。
古い店でも、二〇四一年の店だった。
僕は窓際を選んだ。
店側の公開情報で、空調がいちばん楽そうだったからだ。




