第3話 悪魔はパーソナルAIのフリをしている(五)
その横に、短く文字が出る。
> ペース維持
> 最初の八分は上げない
牧野も一度だけ視線を落とした。
「こっちは、今のペースだけですね」
牧野が自分の表示を見て言った。
カナメの表示そのものは、こちらには見えない。
ただ、牧野の視線は一拍だけ止まり、すぐ前へ戻った。
牧野の言葉どおりなら、走っている間は詳しい根拠まで出ない設定だ。
必要なら本人があとで呼ぶ。さっき牧野が言った通りの設定だ。
アゼルはそこで終わらない。
ペースの横に、僕の息継ぎや歩幅まで並べようとする。
> 呼吸、浅い
> 歩幅、少し広い
牧野の前で、見えない相手へ言い返すほど息に余裕はない。
アゼルの表示はすぐ消えた。
けれど、息が乱れ始めたところを先に押さえられた。
さっきの「上げない」も、外れてはいない。
止められなければ、僕は速度を上げていた。
そのまま数分で息を切らしていた。
認めたくはないが、止められた理由は分かる。
正しいことと、納得できることは別だった。
前方で、観光客の一団が道をふさいだ。
グラスの端に、右へ抜ける細い線が出る。牧野も同じように、半歩右へ寄った。
僕も続こうとしたところで、線の色が少し変わった。
大人の足の間から、小さな靴先が見えた。
まだ子どもの顔は見えない。
僕は一歩ぶんだけ足を緩めた。
牧野も同じように緩めた。
次の瞬間、子どもが母親の手を離し、こちらへ飛び出した。
そのまま右へ抜けていたら、目の前に出ていた。
足を緩めていた分だけ、体を横へ逃がせた。
牧野も、子どもが母親の手に戻るのを見届けた。
僕たちは数歩だけ歩き、牧野が先に軽く走り出した。
僕も遅れて走りに戻った。
牧野はもう一度、子どもの方を見た。
母親が子どもの手を握り直す。
「危なかったですね」
「ですね」
牧野は呼吸を整えて前を向いた。
皇居の周りには、同じようにスマートグラスをかけたランナーが何人もいる。
公開設定にしている人の走行距離やランニングクラブ名が、薄い白いカードで浮く。
会話可否を出している人もいれば、完全非公開の人もいる。
道の上に、短い注釈がいくつも浮いている。
走り始めて十分ほどで、皇居の周りの景色は、研究所の廊下とは別のものだと分かってきた。
当たり前のことなのに、最近の僕は、その当たり前を忘れていた。
研究所では、人は目的地へ向かって歩く。会議室、端末室、実験区画、休憩室。
会議室の扉には予約名が出る。実験区画の表示には、入室権限が出る。
皇居の外周では違う。観光客は足を止め、ランナーは追い抜く。
子どもは水たまりを避けず、わざと踏んで笑う。
外国人の夫婦が、スマートグラスの翻訳字幕を見ながら案内板の前で笑っている。
ベビーカーを押す父親は、イヤーカフの通知に小さくうなずき、赤ん坊の額へ手を伸ばした。
こちらに内容までは聞こえない。
「AIは便利です。でも、情報は必要な時に必要な分だけ出さないと、人の方が受け取れません」
牧野は僕ではなく、前を走るランナーの手元を見ていた。
「多すぎると、動くのが遅れます。カナメも、走っている間は通知を短くしています」
牧野は一度だけ視線を落とし、すぐ前へ戻る。
「危ない時は警告だけ。理由は止まってからでいいので」
牧野の設定では、そこで止める。
警告は出す。けれど、走っている人に理由まで読ませない。
牧野は息を乱さずに走っている。肩の上下が小さい。
僕はその横で、返事をするのを諦めた。
右下に、短い表示が出る。
> 呼吸優先
表示はすぐ消えた。
牧野は、走る速度を落とさないまま口元をゆるめた。
言い返す余裕もないので、足音に合わせて長めに息を吐く。
堀沿いの道に出ると、風の匂いが少し変わった。車の音が遠くなり、水の匂いと湿った石の匂いが混じる。
朝の光が石垣に当たり、スマートグラスの眩しさ補正が一段落ちた。
石垣の案内と足元の誘導線が、視界の端に短く出ては消える。
右下のアゼルは、小さな姿のまま動かない。
一度整ったと思った息は、堀沿いへ出るころにはまた浅くなった。
牧野はまだ会話できる余裕がある。
ここで負けを認めるのは悔しいが、認めなくても足と肺は正直だった。
吸うより、吐く方を長くする。
それだけを考えて、次の角まで走った。
◇
一周を終えるころには、僕の余裕はかなり減っていた。
倒れるほどではない。
ただ、ペースを落とした途端に足の中が重くなる。
牧野は走るペースを落とし、歩く速さに合わせた。
「三嶋さん」
「はい」
「やっぱり、普段から少し動いた方がいいです」
「その結論を出すために走らされたんですか」
「走る前から結論は出ていました」
「……検証、いらなかったんじゃないか?」
「自分で気づかないと、続きませんから」
牧野はそこで話を切り、さらに歩幅を緩めた。
僕のグラスの端には、心拍だけが小さく残っている。
それ以上説明を足されなかったので、息を整える余裕が残った。
堀沿いの日陰を、汗が冷えすぎない速さでゆっくり歩く。走っている時よりも、周りの音がよく聞こえた。
自転車のチェーン、遠くのバスのブレーキ、観光客の会話。
イヤーカフに触れる小さな音のあと、誰かのグラスが、周囲にも分かる撮影許可の短い音を出した。
牧野がペットボトルを開けながら言った。
「三嶋さん、普段はどのくらい歩いていますか」
「通勤で歩いてますね」
「その分も入れて、足りていないんだと思います。今の息を見る限り」
「通勤も運動では」
「入ります。でも、体を動かすためにまとまって歩く時間は、別に要ります」




