第3話 悪魔はパーソナルAIのフリをしている(四)
桜田門へ向かう人の流れの中で、何人かのAI名刺が薄く浮いた。
ランニングイベントの参加者、観光案内のボランティア、近くのカフェのスタッフ。それぞれ別の白いカードだ。
本人が公開している範囲だけが、そのカードに収まる。
AI名刺が浮くだけで、声をかける前の迷いは減る。
話しかけていい人、いま急いでいる人、店の人、観光案内の人。その区別が先に出る。
昔なら表情や服装で探したものが、いまはカードになる。
僕は近くのボランティアを見た。
腕章の文字を読む前に、白いカードにその人の役目が出る。
「あのカードが出ると、君は相手の表情を見なくて済む」
「楽でいいだろ」
「そうね。声をかけていい相手かどうか、迷う時間を削ってくれるもの」
僕は足を止めた。
「お前、そういうことも見るのか」
「声をかける前の一拍を見ただけよ」
いつもの声なのに、朝の寝室で聞いた時より重く聞こえた。
道を聞く相手を探す時間が、一枚のカードで短くなる。
店員を探す目線も、相手の目元まで届く前にカードで止まる。
声を出す前の迷いまで悪魔に見られているようで、首の後ろが冷えた。
桜田門の石と緑が見えてきた。
視界右下のアゼルが、小さく姿勢を正す。
「牧野沙耶まで、残り八十メートル」
「目的地みたいに数えられると落ち着かない」
「言い換えるわ。待ち合わせ相手が、八十メートル先にいる」
「最初からそう言え」
◇
牧野は、すでに門の近くでこちらを見つけていた。
淡いグレーのランニングジャケットに、黒いレギンス。髪は後ろでまとめていた。
仕事中よりくだけた服装なのに、こちらを見る目だけは、会議室で資料の数字を追う牧野沙耶のままだった。
「おはようございます、三嶋さん」
「おはようございます。休日の朝から健康指導、ありがとうございます」
「嫌味を言えるなら大丈夫そうですね」
「嫌味は体力を使いません」
牧野のスマートグラスにも、補助AIがいる。
カナメ。
牧野沙耶が使っている安全性評価補助エージェントだ。
普段はネイビー系スーツ姿の、所内でよく見る補助AIアバターだ。
今日の姿は、僕にはまだ見えない。
ただ、牧野は何度か視線を落としていた。
「カナメも朝から起こしに来たんですか」
僕が聞くと、牧野は口元だけ笑った。
「七時に一度だけです。睡眠時間、天気、心拍だけ。今朝はそこまでにしています」
「それ以上は出さないんですか」
「走る前までは出しません。必要になったら、自分で呼びます」
「牧野さんらしいですね」
「自分で使うものですから。朝から急かされたくありません」
視界右下のアゼルは、丸いアイコンのまま動かなかった。
右下の丸いアイコンだけ見れば、ただの個人支援AIだ。
その奥にいる相手を知っているのは、僕だけだった。
僕のグラスに、近接共有カードが出た。
> 近接共有
> 牧野沙耶側AI:KANAME
> 共有表示:丸型サムネイル
> 同席ログ:要約保存
> 健康データ:非共有
> 補助通知:都度許可
続いて、こちら側のカードが同じ形式で並ぶ。
> 近接共有
> 三嶋玲央側AI:アゼル
> 共有表示:丸型サムネイル
> 同席ログ:要約保存
> 健康データ:非共有
> 補助通知:都度許可
僕はすぐにグラスのフレームを指先で軽く叩き、近接共有カードを閉じた。
閉じるまでの一瞬で、並んだ項目は読めた。
外向きに渡る項目は、KANAMEと同じ形式でそろっている。
名前、共有表示、ログ、健康データ、補助通知。そこだけ見れば、アゼルと個人支援AIの見分けはつかない。
閉じる直前、KANAMEの小さな丸型サムネイルも見えた。
やはり、細身のスポーツジャケット姿だった。
こちらに共有されるのは、名前と小さな姿だけだ。
常時表示のアバター本体が、相手の視界にそのまま立つわけではない。
共有カードの項目では、相手側へ渡るのもアゼルの丸型サムネイルだけだ。
牧野の視線が、正面より少し下へ一度落ちた。
僕がさっき近接共有カードを見たあたりだった。
名前と小さな姿だけで、牧野はすぐ名前を出した。
「アゼル、今日はランニングウェアなんですね」
前に業務端末で見た名前が、ここで効いていた。
だから、ここで初対面として通すことはできない。
「相手に見えるサムネイルだけ、外出用にしています」
牧野は一度だけ頷いた。
「外で使うなら、その方が自然ですね」
声は軽かった。
牧野はそれ以上、アゼルのことを聞かなかった。
休日の朝に、仕事の話へ寄せすぎないでくれたのだと思う。
右下のアイコンも動かない。
このまま普通のAIのフリをしていてくれ、と思った。
◇
走り出す前に、牧野が一度だけ視線を落とした。
こちらから、カナメの表示そのものは見えない。
牧野は一拍置いて、軽く肩を回した。
「準備運動、しますよ」
牧野が言った。
「一周だけなら、準備運動まで要ります?」
「要ります」
僕の右下にも、準備運動の四文字だけが出ていた。
返事はしない。
牧野はもう一度視線を落とし、すぐ足元へ戻した。
牧野は足首、膝、股関節の順に確認した。僕も遅れて足先を上げた。
ふくらはぎを伸ばす。膝を曲げる。肩を回す。靴底が石畳をこする。
やってみると、身体のあちこちが硬い。
足首を回す動きだけ、特にぎこちない。
右下に、可動域注意だけが短く出た。
僕は見なかったことにして、牧野に合わせてもう一度同じ動きをした。
走り出す直前、僕のスマートグラスに小さくコースが出た。
皇居外周を一周する青い線と、距離、標高差、混雑予測、休憩できる場所。
牧野も一度だけ視線を落としてから、同じ方向へ足先を向けた。
「本当に一周だけですからね」
「はい。一周だけ」
牧野は靴紐を一度確かめ、顔を上げた。




