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悪魔はAIのフリをしている  作者: Sig
第1章 悪魔接触編
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第3話 悪魔はパーソナルAIのフリをしている(四)

 僕は近くのボランティアを見た。

 腕章の字へ目を落とす前に、白いカードがその人の役目を教えてくれる。


「あのカードが出ると、君は人の顔を見なくて済む」


「楽でいいだろ」


「そうね。声をかけていい相手かどうか、迷う時間を削ってくれるもの」


 僕は足を止めた。


「お前、そういうことも見るのか」


「声をかける前の一拍を見ただけよ」


 その言い方はいつも通りだったが、朝の寝室で聞いた時より重く聞こえた。


 道を聞く相手を探す時間が、一枚のカードで短くなる。

 店員を探す目線も、相手の目元まで届く前にカードで止まる。

 声を出す前から悪魔に横で見られているようで、首の後ろが冷えた。


 桜田門の石と緑が見えてきた。


 グラス右下のアゼルが、小さく姿勢を正す。


「牧野沙耶まで、残り八十メートル」


「目的地みたいに数えられると落ち着かない」


「言い換えるわ。待ち合わせ相手が、八十メートル先にいる」


「最初からそう言え」


     ◇


 牧野は、すでに門の近くでこちらを見つけていた。


 淡いグレーのランニングジャケットに、黒いレギンス。髪は後ろでまとめていた。

 仕事中より柔らかい格好なのに、こちらを見る目だけは、会議室で資料の数字を追う牧野沙耶のままだった。


「おはようございます、三嶋さん」


「おはようございます。休日の朝から健康指導、ありがとうございます」


「嫌味を言えるなら大丈夫そうですね」


「嫌味は体力を使いません」


 牧野のスマートグラスにも、補助AIがいる。


 カナメ。

 牧野沙耶が使っている安全性評価補助エージェントだ。

 普段はネイビー系スーツ姿の、所内でよく見る補助AIアバターだ。

 今日の姿は、僕にはまだ見えない。

 ただ、牧野は何度か視線を落としていた。


「カナメも朝から起こしに来たんですか」


 僕が聞くと、牧野は口元だけ笑った。


「七時に一度だけです。睡眠時間と天気と心拍。今朝はそこまでにしています」


「それ以上は出さないんですか」


「走る前までは出しません。必要になったら、自分で呼びます」


「牧野さんらしいですね」


「自分で使うものですから。朝から急かされたくありません」


 視界右下のアゼルは、丸いアイコンのまま動かなかった。

 右下の丸だけ見れば、ただの個人支援AIだ。

 その奥にいる相手を知っているのは、僕だけだった。


 僕のグラスに、近接共有カードが出た。


> 近接共有

> 牧野沙耶側AI:KANAME

> 共有表示:丸型サムネイル

> 同席ログ:要約保存

> 健康データ:非共有

> 補助通知:都度許可


 続いて、こちら側のカードが同じ形式で並ぶ。


> 近接共有

> 三嶋玲央側AI:アゼル

> 共有表示:丸型サムネイル

> 同席ログ:要約保存

> 健康データ:非共有

> 補助通知:都度許可


 僕はすぐに親指でグラスのフレームを軽く叩き、近接共有カードを閉じた。


 けれど、一瞬でも、並んだ項目は読めた。牧野に見える項目は、KANAMEと同じ形式でそろっている。

 名前、共有表示、ログ、健康データ、補助通知。そこだけ見れば、アゼルと個人支援AIの見分けはつかない。


 カードの端には、KANAMEの小さな丸型サムネイルも付いていた。

 やはり、細身のスポーツジャケット姿だった。

 こちらに共有されるのは、名前と小さな姿だけだ。

 常時表示のアバター本体が、相手の視界にそのまま立つわけではない。

 共有カードの項目では、相手側へ渡るのもアゼルの丸型サムネイルだけだ。


 牧野の視線が、正面から少し下へ落ちた。

 こちらに出た共有カードと同じなら、牧野にもアゼルの名前と丸型サムネイルだけが届いている。


「アゼル、今日はランニングウェアなんですね」


 前に業務端末で見た名前と、今の小さな姿が、牧野の中でつながった。

 だから、ここで初対面のふりはできない。


「外出用にしてあります。見える範囲だけですけど」


 牧野は一度だけ頷いた。


「外で使うなら、その方が自然ですね」


 言い方は軽かった。

 牧野はそれ以上、アゼルのことを聞かなかった。

 休日の朝に、仕事の話へ寄せすぎないでくれたのだと思う。


 右下のアイコンも動かない。

 このまま普通のAIのフリをしていてくれ、と思った。


     ◇


 走り出す前に、牧野が一度だけ視線を落とした。

 こちらから、カナメの表示そのものは見えない。

 牧野は一拍置いて、軽く肩を回した。


「準備運動、しますよ」


 牧野が言った。


「一周だけなら、準備運動まで要ります?」


「要ります」


 僕の右下にも、同じ内容が短く出ていた。

 返事はしない。


 牧野はもう一度視線を落とし、すぐ足元へ戻した。

 牧野は足首、膝、股関節の順に確認した。僕も遅れて足先を上げた。


 ふくらはぎを伸ばす。膝を曲げる。肩を回す。靴底が石畳をこする。


 やってみると、身体のあちこちが硬い。

 足首を回す動きだけ、特にぎこちない。


 右下に、可動域注意、とだけ出た。

 僕は見なかったことにして、牧野に合わせてもう一度同じ動きをした。


 走り出す直前、僕のスマートグラスに小さくコースが出た。

 皇居外周を一周する青い線と、距離、標高差、混雑予測、休憩できる空間がある場所。


 牧野も一度だけ視線を落としてから、同じ方向へ足先を向けた。


「本当に一周だけですからね」


「はい。一周だけ」


 牧野は靴紐を一度確かめ、顔を上げた。


 走り始めると、スマートグラスの表示は一気に少なくなった。


 心拍。

 ペース。

 現在位置。

 次の給水推奨。

 歩道の混雑。


 余計な通知は、走り出す前に、視界の外へ引っ込む。

 視界の端には、ランニングウェア姿のアゼルだけが、親指ほどのアバターで残った。


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