第3話 悪魔はパーソナルAIのフリをしている(二)
問題は、その朝の支度にアゼルまで紛れていることだった。
照明、空調、スマホの通知に続いて、悪魔の声まで当たり前のように届く。
「起きたら五分以内に水。そこは譲らないわ」
「まだ起きると決めてない」
「返信したわ」
「したけど」
「集合場所も時刻も確定した。あとは起きるだけよ」
「人間には心の準備というものがある」
「心の準備を待つと、君は二度寝するわ。高確率で」
否定できなかった。僕はしぶしぶベッドから出た。
床に足をつけた瞬間、ふくらはぎの奥に、普段ほとんど感じない重さがあった。
走る前から足が重い。口に出せば、アゼルはそれを不調ではなく、準備項目として扱うだけだ。
だから黙った。アゼルが片手を動かすと、HoloDockの表示面に簡単な準備リストが出た。
> 水分補給
> 軽食なし
> ランニングウェア
> スマートグラス
> 交通系決済
> 帰宅後の仮眠時間確保
「仮眠時間まで入ってる」
「走ったあとに仕事は入れない。今日はそういう日よ」
「休日なんだから、仕事を入れない方が普通だろ」
「君は普通にしていると、仕事へ戻るでしょ」
「休みの日まで、仕事前提で見るな」
洗面所へ向かうと、鏡の端に、顔色、睡眠不足、目の下の影、洗顔前のむくみまで小さく並んだ。
鏡にそこまで言われたくない。
それでも、顔は洗う。
洗面所を出て台所へ行き、浄水器付きの蛇口からコップに水を注いだ。
水も飲む。
鏡に言い返したつもりで、やっていることは表示された順番どおりだった。
コップを置く手に、余計な力が入る。
僕はクローゼットの奥から、スポーツウェアを一着だけ出した。
いつ買ったのかも覚えていない。畳み皺だけが、買った時の折り目のまま残っている。
「それでいいわ」
「いいも何も、スポーツウェアはこれしかないからな」
言い返しながら、僕は服の皺を一度伸ばし、袖を通した。
九時に桜田門へ向かいます。一周で限界です。
自分で打った文面を、遅れて思い出してしまう。
行くと返事をしたのは僕だ。
文句を言いながら、僕はもうそのための支度を進めている。
着替えを終えて、スマートグラスをかける。
その瞬間、枕元のHoloDockの光が消え、同じ姿のアゼルが視界の右下に現れた。
ランニングウェア姿のまま、視界の端で腕を組んでいる。
声は、スマートグラスのつるから小さく入った。
「遅いわ」
「お前は枕元から視界に移っただけだろ」
「君は靴を履くまでに三分二十秒かけたわ。紐の結び直しを含む」
「休日の朝から秒で測るな」
「九時に桜田門よ」
「分かってる」
玄関の鍵を閉め、取っ手を一度引くと、スマートグラスの表示が外出モードに変わった。
天気、外気温、電車の遅延、集合場所までの所要時間、最寄り駅までの徒歩ルート、大きな交差点の待ち時間が並ぶ。
視界右下のアゼルが、外出モードの表示を眺めてから口を開いた。
「日差しは強くない。走るにはちょうどいいわ」
「お前、本当に楽しそうだな」
「ええ。寝室では見えない君の癖が出るもの」
「朝から観察記録に入れるな」
「ただの付き添いよ」
「付き添いは秒単位で靴紐を記録しない」
集合までまだ少し時間があった。
通り沿いのコンビニの店頭ポスターに缶コーヒーの新商品が見え、足が止まりかけた。
つま先が半歩だけ店側へ向いた瞬間、アゼルが言う。
「寄る必要はないわ」
「まだ何も言ってない」
「コーヒーを買うつもりだったでしょ」
「決めつけるな」
「違うの?」
違わなかった。
グラスの端には、コンビニの混雑予測と、店内商品の簡易リストが勝手に浮いている。
水、ゼリー飲料、缶コーヒー、軽食。そのうち缶コーヒーだけ、アゼルが半透明にしていた。
「半透明にする前に確認しろ」
「誘惑は見えにくい方がいいのよ」
「それ、勝手にやっていいのか」
「コーヒーだけ、先に目立たなくしたのよ」
「店に入る前から選択肢を削るな」
僕は結局、コンビニには入らなかった。
コンビニに入らないと決めたのは僕だ。
けれど、半透明になった缶の列を見た後の選択だった。
「そこで止まれたなら上等よ」
「言うと思った」
「言わない方がよかった?」
「少しは学習してくれ」
「なら、次回から表示だけにするわ」
「表示だけなら、まだこっちで選べる」
「手のかかる利用者ね」
「選ぶ手間くらい残せ」
アゼルは返事をしなかった。
契約者、と言わなかっただけましだ。
言い返されるより、そこで黙られる方が面倒だった。
店先のガラスに、運動用の服とスマートグラスをつけた自分が映った。
スマートグラスの視界右下では、アゼルが丸いアイコンに戻っている。
外から見れば、パーソナルAIに健康管理されている寝不足の男にすぎない。どこにもおかしなところはない。
違うのは、僕だけがその表示の正体を知っていることだった。
端末の利用履歴だけを見れば、もっと単純だ。
寝不足の利用者に、AIが水分補給と経路を勧めた。
この時代なら、それはよくある朝の支度の手伝いでしかない。
残らないのは、その丸いアイコンの向こうにいる相手の正体だけだった。
西暦二〇四一年の東京で、パーソナルAIを連れて歩くことは珍しくない。
だから、駅へ向かう人のグラスの端にも、予定、経路、体調のどれかを示す通知が小さく灯る。
本人の視界に通知や案内が出ていることだけは、グラスの外側ランプで周囲にも分かる。
利用者の視線だけが、正面からわずかに外れる。
それでも、誰も振り返らないし、僕も振り返られないことに慣れている。




