第3話 悪魔はパーソナルAIのフリをしている(一)
休日の朝、枕元の棚で、文庫本ほどのHoloDock miniが起動した。
小さな台座から光が伸び、ベッド脇の壁に手のひらほどの投影面が浮かぶ。
その手前に、黒いランニングウェア姿のアゼルが、朝の光を背にして小さく立っていた。
昨日の黒い研究補佐風の服ではない。
黒地に細い赤線の入った、いかにも走るためのウェア。
髪は軽くまとめられ、翼めいた飾りも、小さなスポーツブランドのロゴのように畳まれている。
悪魔が、朝から走る気でいる。
「行かない」
僕は布団を鼻の下まで引き上げたまま言った。
アゼルは、ベッド脇の光の中で腕を組む。
「行くわよ」
「まだベッドの中だぞ」
「だから起こしに来たの」
「休日の朝に皇居ランする理由が、僕にはない」
「あるわ。寝不足、疲れの積み残し、歩かなさすぎ。どれも契約にも君にもよくない」
「そこはせめて、健康に悪いって言え」
「健康に悪いわ」
「言い直せばいいわけじゃない」
枕元のHoloDockは、本来なら睡眠ログと今日の予定を出す装置だ。
心拍、睡眠時間、天気、移動予定。必要なら、枕元で起きる時間に合わせて照明と空調も動かす。
寝癖の残った利用者の横で、アバターが予定を読み上げる。
それくらいなら、二〇四一年の寝室では珍しくもない。
引っかかるのは、HoloDockのセンサーが僕を見ているのではないことだった。
HoloDockが作っているのは、壁際にアゼルが立っているように見せる薄い立体表示にすぎない。
端末本体も、壁に落ちた光も、寝室用の表示装置でしかない。
それでも、表示の中のアゼルは、僕が目を開ける前から、睡眠が足りていないことを知っていた。
知っているのは機器ではない。
契約で僕につながったアゼルだった。
スマホには、昨夜のうちに届いた牧野沙耶からのメッセージが、既読のまま残っている。
明日の朝、少し走りませんか。
無理なら歩きましょう。
皇居の外周、一周です。
終わったら、ちゃんと食べましょう。
文面は穏やかで、句点まできちんと打たれていた。
でも、断るための隙間は少ない。
少し。
無理なら歩く。
一周です。
ちゃんと食べる。
牧野さんは、丁寧な言葉で、断る理由を先に片づけていた。
「牧野沙耶の誘いは、今の君にちょうどいいわ」
「朝からお前が牧野さん側につくの、納得いかないんだけど」
「君を動かしたい、という利害だけは、牧野沙耶と一致しているわ」
「そこは目的でいいだろ」
「善意と言えば聞こえはいいかしら」
「お前が言うと、善意まで契約条件に聞こえる」
HoloDockの表示が切り替わる。
僕のここ一週間の移動履歴が、壁の投影面に淡い線で並んだ。
研究所。
自宅。
地下鉄。
コンビニ。
研究所。
自宅。
線はすぐ途切れ、投影面の端で細く終わっていた。
「それに、君の観測範囲は狭いわ」
「観測範囲?」
「研究所、自宅、地下鉄、コンビニ。近頃はほぼそれだけよ」
「人の生活を、移動履歴だけで分かった気になるな」
「ログよ」
「否定しろ」
「実験室の机の上だけでは足りないわ」
アゼルは、投影面に並んだ移動履歴から視線を外さずに言った。
「研究所では、測ることも記録することも、失敗の扱いも手順に入っているわ」
「外だと違うのか」
「違うわ。表示を疑う。紙を探す。人に確かめる。どれを先に見るか、その場で決める」
「ただの迷いだろ」
「迷い方にも、問い方は出るわ」
「人の迷いを教材にするな」
アゼルは、スマホの上に返信候補を三つ出した。
> ①了解しました。九時に桜田門で合流します。
> ②一周だけなら行きます。
> ③食事は肉がある店でお願いします。
「全部、行く前提じゃないか」
「逃げ道も置いたわ」
表示が切り替わる。
> ④体調不良のため欠席します。
> ※ただし、その場合、牧野沙耶が追加で心配する可能性があります。
「嫌な精度だな」
「当たりそうだから嫌なのでしょう」
布団の中で、僕はしばらくスマホを見た。
行きたくない。
でも、断ると牧野に心配される。
行けばアゼルに観察される。
どちらを選んでも、逃げ場だけはきれいになくなる。
「一周だけだぞ」
「そのくらいでいいわ」
「行く。けど、返事の文面まで預けない」
僕はどの候補も選ばず、返信欄をいったん空にした。
そこへ、牧野さんに送る文面を、自分の言葉で打った。
九時に桜田門へ向かいます。
一周で限界です。途中で歩いたらすみません。
終わったら、肉のある店だと助かります。
送信すると、HoloDockの光の中でアゼルが、短くうなずいた。
「その返事なら、牧野沙耶は無理に走らせないわ」
「送ったそばから予測するな」
「『途中で歩いたら』と書いたのは君よ」
「そこまで拾うな」
布団をめくる前から、HoloDockは起きる時間に合わせて照明を整えていた。
カーテンの隙間から入る朝の光に合わせて、照明は少しずつ明るくなっていた。
エアコンは弱く動き、床の冷えをやわらげる。
スマホの画面には、集合時刻までの残り時間と、乗るべき電車が並んでいた。
その下に、予定、水、鍵、スマートグラス、交通系決済の確認項目が続く。
照明と空調が整い、スマホが忘れ物を知らせる。
それだけなら、寝癖の残った利用者の朝の支度を助けるだけで済む。
問題は、その案内役の一つとしてアゼルが紛れていることだった。
照明、空調、スマホの通知に続いて、悪魔の声まで当たり前のように混ざっている。
「起きたら五分以内に水。そこは譲らないわ」




