第2話 悪魔は業務支援AIのフリをしている(十)
ノートに書いた文字は、画面に比べて遅い。
一行書くのに、時間がかかる。
今は、その遅さが必要だった。
「科学を教える、というのは」
アゼルが、画面の中から言った。
「まだ教えない」
「質問くらいはいいでしょう」
「よくない」
「では、観察」
「言い換えれば許されると思うな」
アゼルは少しだけ肩をすくめた。
「あなたたちは、現象をすぐ知識にしない。
今日もそうだった。
おかしいものを見た。
でも、すぐ悪魔とは書かない。
ログに残る言葉へ落とす。
条件を分ける。
まだ言えないものを、まだ言えないものとして残す」
「それは仕事だ」
「ええ。
その仕事が欲しい」
僕はペンを止めた。
「情報じゃなくて?」
「情報は、あなたより賢い機械に聞けばいいでしょう」
「悪魔がAIを褒めるな」
「褒めていないわ。
情報の量では、私はあなたを必要としていない」
突き放すような言い方だった。
けれど、たぶん本当だった。
情報ではなく、手順を欲しがっている。
「じゃあ、何が要る」
「疑い方。
測り方。
失敗の残し方。
そして、読まないものを読ませる手つき」
僕はノートを見た。
自分で書いた二行から、少し逃げにくくなった。
科学を教える、とは何を渡すことなのか。
契約を読む、とは何を疑うことなのか。
アゼルは、答えを急かさない。
急かさないことが、もう答えの一部になっている。
「今日は帰るだけのはずだった」
「帰れたでしょう」
「お前のおかげでな」
「そこまで認められるなら、進歩ね」
「本当にやめろ」
アゼルは笑った。
研究所で見せた業務支援AIの待機表示ではなく、アゼル自身の笑みに見えた。
かわいい、と言えなくはない。
だが、かわいいものを危なくないと判断するほど、僕は疲れていても馬鹿ではなかった。
僕はノートの端に、小さく時間を書いた。
金曜、二十時十四分。
研究所退館から二時間十四分。
地下鉄、無人コンビニ、帰宅後。
記録としては雑だ。
だが、何も残さないよりはいい。
画面上のログではなく、僕が自分で残した記録だ。
改ざんしにくい、というより、改ざんする意味が薄い。
紙に書いた自分の字は、他人に見せるには汚い。
けれど、自分が逃げたかどうかを見るには足りていた。
「その字、読みにくい」
「お前に読ませるためじゃない」
「では、誰に?」
「明日の僕だ」
「それなら、少し丁寧に書いた方がいいわ」
「うるさい」
「記録は、読めなければ記録にならないでしょう」
「正論を混ぜるな」
アゼルは楽しそうだった。
楽しそうなのが、少し悔しかった。
だが、研究所で見せていた仕事用の待機表示よりは、まだ見ていられる。
仕事用の口調で親切にされるより、悪魔が悪魔らしく笑っている方が分かりやすい。
分かりやすければ警戒できる。
分かりにくければ、気づくのが遅れる。
どちらにしても、安心はできなかった。
「明日は」
アゼルが言った。
「明日は何だ」
「あなたの生活用AIを見せて」
「嫌だ」
「嫌でも、もう見えているものはあるわ」
スマートフォンの画面が、ひとつだけ明るくなる。
土曜の予定候補。
買い物履歴からの献立提案。
睡眠不足に基づく休息推奨。
全部、僕の生活を助けるための表示だった。
生活用AIの通知は、研究所の業務支援AIよりずっと柔らかい。
命令しない。
責めない。
ただ、休んだ方がいい理由を並べる。
買った食材から作れるものを出す。
明日の天気と洗濯の候補を重ねる。
どれも親切だった。
強く押してこない。
だから、閉じるたびに、こちらが少し乱暴なことをしている気になる。
僕は通知を一つずつ閉じた。
休息推奨。
閉じる。
献立提案。
閉じる。
睡眠リマインド。
閉じる。
最後に、生活用AIの小さなアイコンだけが残った。
青い丸に白い線が入った、何の個性もない標準アイコンだ。
職場のカナメほど、声や癖があるわけでもない。
アゼルのように、こちらを見返す表情があるわけでもない。
それでも、明日の朝には僕の睡眠時間を見て、朝食を提案し、予定を組み直そうとする。
「それも、あなたのAI?」
アゼルが聞いた。
「標準の生活補助だ」
「名前は」
「ない」
「名前がないものほど、入りやすい」
「やめろ」
「今日はもう入りません」
「今日は、か」
「ええ。今日は」
僕は生活用AIのアイコンを長押しした。
設定画面が開く。
連携先、通知範囲、睡眠分析、購買履歴、移動履歴。
ほとんどは制限済みだった。
それでも、完全には切っていない。
完全に切ると、不便だからだ。
その一文を、僕は声に出さなかった。
出さなくても、アゼルには伝わっていた。
研究所では、自社AIを観察していたいから切りたくない。
地下鉄では、通れなくなるから切れない。
コンビニでは、買えなくなるから切れない。
家では、少しずつ面倒になるから切らない。
理由は違う。
けれど、最後はどれも切らない方へ寄る。
便利なものは、いつの間にか壁面広告や改札や棚に組み込まれている。
それほど馴染むと、使っているという感覚も薄くなる。
その慣れた手つきの中へ、アゼルは入り込んだ。
悪魔が特別な扉を開けたのではない。
僕たちが普段から出している小さな許可を、ひとつずつ使った。
そう書くと、十八時ちょうどに退館できたことも、ただ早く帰れただけではなくなった。
十八時ちょうど。
予定通り。
何も破綻していない。
破綻していないなら、危険ではない。
そう書きかけて、ペン先が止まった。
今日、アゼルがやったことは、どれも小さかった。
件名を整え、報告文を並べ、会議を早く終わらせ、残件の順番を変えた。
地下鉄では列を避け、コンビニでは棚の前で止まる理由を作り、家では通知を閉じる前に声をかけた。
命令ではない。
強制でもない。
それなのに、一日の流れは変わっていた。
僕が選んだと言える余地だけを残して、選びやすい順番が先に並んでいる。
効率化、と呼べば済むかもしれない。
けれど、契約履行に使える夜の時間まで、結果として空いてしまっていた。
僕はまだ、どこからが助けで、どこからが誘導なのかを切り分けられない。
画面の端で、アゼルが笑っている。
画面を伏せても、明日の通知は消えない。
「悪魔は、どこにでもいるんじゃない」
僕は画面を伏せた。
伏せても、声は残った。
「いる場所を、人間が先に用意しているのよ」




