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悪魔はAIのフリをしている  作者: Sig
第1章 悪魔接触編
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第2話 悪魔は業務支援AIのフリをしている(九)

 エレベーターの壁には、管理会社からの通知が流れている。

 来週の排水管点検。

 共用部清掃。

 宅配ロボットの夜間利用制限。


 どれも、生活のための小さな規約だった。

 読む人は少ない。

 従う人は多い。


 部屋の前に着く。

 スマートロックが開く。

 照明が弱く点く。

 室内の空調が、帰宅モードに切り替わる。


 ただいま、と言う相手はいない。

 それでも、僕が玄関を開ける前から部屋は帰宅モードになっていた。


 玄関横の小さなホームハブが、帰宅処理を終えたことだけを青い点で示す。

 音声は切ってある。

 冷蔵庫の在庫推定も、照明の自動提案も、寝室の湿度通知も、全部オフにしている。


 それでも、完全には止まらない。

 給湯器は使用時間を覚えている。

 空調は外気温を読んでいる。

 電力メーターは、僕が帰った時間を知っている。


 家は、研究所より静かだ。

 静かなだけで、見ていないわけではない。


「生活用AIを切っているの?」


 アゼルが聞いた。


「うるさいから」


「本当に?」


「便利すぎるから」


 言ってから、自分で少し驚いた。

 昨日までなら、そんな言い方はしなかった。


 便利すぎるものを切る。

 それは、僕が自分の生活でかろうじてやっていた防御だった。


「仕事では切らないのね」


「切りたくない、の方が近い。

 仕事道具でもあるし、見ていて面白い」


「好きで見ているものは、便利なものより切りにくい」


 僕はコンビニ袋を持ったまま、動きを止めた。


「だから、業務支援AIとして入り込んだのか」


「ええ。

 あなたがいちばん切りにくい場所でしょう」


「性格が悪い」


「悪魔に遠慮を期待しないで」


 表情は少しも崩れない。

 悪魔だからではなく、アゼルはそうやって笑うのだと思った。


 テーブルにコンビニの袋を置く。

 スマートフォンを伏せる。


 伏せても、画面は消えなかった。

 黒いアバターだけが、暗いガラスの上に残っている。


「今日は、よく働いた」


「僕がな」


「ええ。あなたが」


 アゼルはあっさり認めた。


 そこで僕の仕事だと認められる方が、ずっと嫌だった。

 今日の仕事は、僕がやった仕事として残っている。

 会議も、返信も、ワークログも、退館時刻も。

 アゼルがいた証拠ではなく、僕が処理した記録になっている。


 僕はスープを温め、サンドイッチを皿に出した。

 プリンは冷蔵庫へ入れようとして、やめた。

 疲れている時に取った甘いものは、たいていその場で食べるために買っている。


 電子レンジの扉に、温め時間の候補が出た。

 温めるものを選ばなくても、スープ容器のタグを読んでいる。

 僕は表示された標準時間から十秒引いた。

 熱すぎると舌が痛むので、いつも少し短くする。


「それは読んだの?」


 アゼルが聞いた。


「経験だ」


「経験も、読んだ結果でしょう」


「何でも契約と読解に寄せるな」


「今日はそういう日よ」


 レンジが鳴る。

 音声案内は切ってある。

 それでも短い電子音だけは残る。


 僕はスープを取り出し、テーブルに置いた。

 湯気が上がる。

 研究所の空調、地下鉄の案内、コンビニの棚、マンションのゲート。

 今日見たものの中で、湯気だけは何も勧めてこなかった。


 熱い。

 冷める。

 飲む。


 ただ冷めていくだけのものは、思ったより少ない。


「スープまで疑わなくていい」


 アゼルが言った。


「疑ってない」


「疑いそうな顔」


「お前のせいでな」


 僕はスープを一口飲んだ。

 少しぬるい。

 十秒短くした分だけ、確かにぬるい。


 その小さな確かさに、少し安心した。


 スマートフォンの画面で、アゼルの視線が湯気の方へ動いた。


「食事も契約か?」


「それは交換ね」


「何と」


「今のあなたなら、時間と体調」


「そこで急に正論を出すな」


「失礼ね。

 あなたがやっと聞く姿勢になっただけよ」


 当然のように言うな、と思った。


 僕はサンドイッチを食べた。

 研究所の昼休みに食べたものと、ほとんど同じ味がした。

 違うのは、誰にも見られていないことだけだ。


 誰にも見られていない。

 そう言い切れない部屋になっていることは、もう分かっていた。


「研究所の外はどうだった」


「面白いわ」


「よかったな」


「研究所より、ずっと契約が多い」


「買い物も乗車も契約扱いか」


「それだけではないわ。

 道を選ぶ。

 通知を許す。

 広告を消さない。

 おすすめを受ける。

 初期値を変えない。

 人間は毎日、読まないものに少しずつ同意している」


 僕は箸を止めた。


「だから何だ」


「だから、あなたが契約を怖がるのは間違っていない。

 でも、契約だけを特別扱いすると、見落とすものが増えるわ」


「悪魔に文明批評される日が来るとは思わなかった」


「感心しているのよ」


「どこが」


「今日は、読めたでしょう」


 コンビニのおすすめ設定。

 通知欄の初期値。

 研究所のワークログ。

 昨夜、評価室で読めてしまった文字が、まだ目の奥に残っている。


 僕は鞄からノートを取り出した。

 端末ではなく、紙を開く。


 ノートの表紙には何も書いていない。

 仕事用ではない。

 研究所の共有にも、個人クラウドにも、生活用AIの要約にも乗らない。

 ただの紙だ。

 どこにも同期しない。


 だから、ここに書く。


 紙は検索できない。

 おすすめも出さない。

 誤字を直してくれない。

 代わりに、勝手に同意もしない。

 僕が手を止めれば、文字も止まる。


 アゼルが画面の中で、少しだけ身を乗り出す。


「それに書くの?」


「端末に書きたくない」


「その警戒は、嫌いじゃないわ」


「お前に評価されたくない」


 僕はペンを持った。

 左手の薬指が、紙の端に触れる。

 冷たさが、まだ残っている。


 紙に書いたのは、結論ではなかった。


 科学を教える、とは何を渡すことなのか。


 その下に、もう一行足す。


 契約を読む、とは何を疑うことなのか。


 アゼルはしばらく黙っていた。


 その沈黙は、研究所の待機演出ではなかった。

 地下鉄の案内でも、コンビニの推薦でもない。

 僕の部屋の中で、悪魔が本当に黙っていた。


 僕はさらに、今日のことを短く書いた。


 『便利なものは、拒みにくい。』


 次に、少し迷ってから書く。


 『悪くないものほど、強い。』


 アゼルが言った言葉だ。

 そのまま書くのは癪だった。

 けれど、書かないと忘れたことにしてしまう。


 僕はペンを置かなかった。


 『標準AIは、与えられた欄で止まる。

  アゼルは、僕が迷う前に次の手順を出す。』


 二行を書き終えると、左手の薬指が少しだけ痛んだ。

 冷たいだけではない。

 細い線を指の内側に引かれるような感覚だった。


「痛む?」


 アゼルが聞いた。


「見えているのか」


「あなたが見たでしょう」


「そういう言い方をするな」


「見たものを言っただけよ」


 僕は返事をしなかった。


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