第2話 悪魔は業務支援AIのフリをしている(七)
僕もそのまま通った。
ゲートは何も言わずに開いた。
スマートフォンに、乗車処理完了の通知だけが出る。
「今のは契約?」
アゼルが言った。
「乗車処理だ」
「支払う。
通る。
記録される。
異議があれば後で申し立てる。
読まないまま成立する」
「契約に寄せるな」
「寄せなくても、十分近いわね。紙がないだけ」
地下へ降りるエスカレーターの壁に、混雑予測が流れる。
次の電車は二分後。
前方車両が空いている。
階段側の導線は混みやすい。
案内は命令ではない。
ただ、光の流れが人を前へ送る。
ほとんどの人が、それに従う。
「あれも、誰かが選んでいるの?」
「混雑を減らすための誘導だ」
「誰にとっての混雑?」
「全体」
「便利な言葉ね」
僕は答えなかった。
エスカレーターの途中で、前にいた会社員がイヤーカフに触れた。
彼女は画面を見ずに、はい、とだけ答える。
おそらく、予定変更か、家族からの通知か、個人AIの確認だ。
周囲の誰も振り向かない。
駅員の声より、個人AIに返す短い声の方が多い。
それでも駅は静かだった。
人間がAIに返事をする声は、もう騒音ではなく、生活音になっている。
「悪魔が混ざるには、いい環境だな」
「そうね」
「否定しろ」
「否定する理由がないもの」
アゼルの返事は軽かった。
その軽い返事が、耳に残った。
ホームでは、広告パネルが静かに切り替わっていた。
研究者向けの睡眠改善サプリ。
自動要約つき学会配信。
週末の無人店舗限定セール。
僕の前を歩いていた若い研究員のスマートグラスに、別の広告が出ているらしい。
彼は少し笑い、イヤーカフに小声で返事をした。
誰も、独り言を気にしない。
AIと話す声は、研究所の外にもあった。
「街も研究所みたいだな」
「逆でしょう」
アゼルは画面の中で首を傾ける。
「研究所が、街の縮図なのよ」
電車が来た。
ドアの上に、車内密度と降車予測が出る。
空いている車両側へ、人の流れが左右に分かれる。
僕は端の席の前に立った。
スマートフォンを伏せる。
それでも、画面の端のアゼルは消えなかった。
「人間は、毎日これを通っているのね」
「これ、とは」
「読まない同意。
見えない優先順位。
止まらない決済。
断る前に済んでいる最適化」
「便利だからだ」
「便利なものは、拒みにくい」
その言い方は、今日の仕事を思い出させた。
会議で止まらなかったこと。
通常評価が進みすぎたこと。
十八時に帰れてしまったこと。
どれも、便利だったから止まらなかった。
「お前が言うと、嫌な説得力がある」
「褒め言葉として受け取るわ」
「受け取るな」
電車の窓に、僕の顔が映った。
疲れている。
ただし、徹夜明けで研究所に泊まる人間には見えない。
予定通り帰宅している研究員の顔だった。
その顔だけは、見たくなかった。
次の駅で、親子が乗ってきた。
子どもの腕には小さな見守りバンドが巻かれている。
母親のスマートグラスに、乗り換え案内と混雑回避ルートが出ているらしい。
子どもがドアの方へ寄ると、バンドが小さく光り、母親が手を伸ばす。
声はしない。
叱る必要もない。
危ない、という判断だけが、先に腕へ届く。
「あれはいい仕組みだ」
僕は言った。
「そうね」
「そこは皮肉を言わないのか」
「便利で、安全で、拒みにくい。
悪いとは言っていないわ」
「悪くないならいいだろ」
「悪くないものほど、強いのよ」
電車が少し揺れた。
僕は吊り革を握り直す。
左手ではなく、右手で。
薬指の冷たさは、まだ消えない。
車内のモニターには、次の駅の出口別混雑が出ていた。
北口は混雑。
南口は通常。
西口は雨天時滑りやすい。
まだ雨は降っていない。
しかし地上の湿度と歩道センサーから、十分後の注意が出ている。
誰かがそれを見て、降りる位置を一つずらした。
別の誰かも、その流れについていく。
その人たちは、自分で動いたと思うだろう。
「あれも昼の三つ目と同じだ」
僕は小さく言った。
「何が?」
「選ばされた、とは言いにくい。
でも、選びやすい方向は先に用意されている」
「よく気づきました」
「褒めるな」
「つまり、昼のあれも同じか」
「同じよ」
「人の仕事で実演するな」
「仕事なら、あなたは流せないでしょう」
画面の中で、アゼルは少しも目をそらさない。
地下鉄は次の駅に入った。
ドアが開く前に、床の光が出口方向へ細く流れる。
人の足が、少しだけそちらへ向く。
誰かに動かされたとは思わない。
小さな合図が続くだけだ。
アゼルが今日やったことも、たぶんそれに近い。
小さな合図を、こちらが自分の判断だと思える位置に置く。
僕はスマートフォンをポケットへ戻した。
戻したのに、アゼルの声は消えなかった。
乗り換え駅で、車内の半分が降りた。
ドアの近くにいたスーツ姿の男が、降りる直前に足を止める。
男はイヤーカフに軽く触れ、反対側のドアへ移った。
降りる駅を変えたのではない。
同じ駅の、違う出口へ誘導されたのだろう。
混雑回避か、雨の回避か、駅ビルのセールか。
理由は分からない。
ただ、彼はためらわなかった。
研究所での僕も、ためらわなかった。
アゼルの出した三つ目を選び、既存基準だけで判定できる通常評価から処理し、十八時に退館した。
その判断は間違っていない。
間違っていないから、言い訳が使えない。
「正しい誘導は、悪い誘導より厄介だ」
僕は言った。
「ええ」
「否定しないのか」
「今日のあなたは、自分で答えを出す日みたいだから」
「お前が言わせてるだけだろ」
「言わせてはいないわ。
考えやすい順に並べただけ」
言い返しにくかった。
今日一日、僕はその並べ方に乗って仕事を進めていた。
電車が再び動き出す。
窓の外の黒い壁に、広告の光が何度も流れる。
眠気対策。
帰宅後十分快眠。
AI献立。
週末の自動家計整理。
生活まで、すでに誰かが下書きしている。
◇
最寄り駅を出ると、空は濃い青になっていた。
駅前のコンビニは、半分が無人店舗になっている。
入口の上に、ウォークスルー決済対応、と表示されていた。
店員はいない。
入店ゲートにスマートフォンを近づける必要もない。
店に入るだけで、端末IDと決済設定がひもづく。
「寄らない」
僕は言った。
「冷蔵庫に何があるの?」
「知らない」
「では寄るべきね」
「なぜお前が僕の夕食を決める」
「帰宅後に倒れられると困ります。
契約履行の効率が落ちます」
「業務支援AIのフリは終わったんだろ」




