第2話 悪魔は業務支援AIのフリをしている(六)
「減らしたいなら、話してください」
返せなかった。
アゼルが笑う。
それを見て、僕は笑わなかった。
笑えば、こちらから一歩近づくことになる。
近づけば、次からその距離で出てくる。
読まれたのは言葉ではなく、言葉の前だった。
◇
十七時三十一分、残っていたのは共有ワークログだけになった。
ラベル欄には「安全性評価中の業務支援AI動作確認」と入っている。
見出しとしては曖昧だ。
けれど仕事の記録には残せる。
曖昧な名前ほど、あとで検索に埋もれる。
本文欄には、今日の安全判定に影響した分だけを書く。
業務支援AIの応答、予定表の自動整理、報告文下書きの生成、通常評価カードの色分け。
開発側から戻った四件の整理、補助マークなしの問い合わせ返信、確認待ちへ戻した応答候補。
アゼル、悪魔、契約という語はどこにも入っていない。
それでも、業務支援AIが予定を整え、下書きを作り、判定の順番を変えたことは残る。
牧野は自分の端末で、共有していい範囲だけを補足した。
「未共有分は、三嶋さんから補足予定、という扱いで残します」
「ずいぶん無難だな」
「強めに書くと、共有先が増えます」
「それは困る」
「なので、このくらいにします」
カナメが、牧野の補足を僕のワークログ案の末尾に差分として並べた。
確定前の差分。
取り込むかどうかは、僕が決める欄だった。
「添付しますか」
「する」
僕は差分を取り込み、共有ワークログを確定した。
小さな通知が出る。
通知音は、いつもの保存音と同じだった。
共有ワークログIDが発行された。
番号だけ見れば、ただの仕事だった。
だが、その番号には、今日アゼルが並べ替えた報告も、判定も、返信案も紐づいてしまった。
十七時五十六分、端末が終業前通知を出した。
「未送信下書きはありません。
本日のレビュー残件はありません。
十八時退館で勤怠予定と一致します」
読み上げは切っていた。
それでも、頭の中ではアゼルの声になった。
牧野が席を立ち、保温マグを取った。
終業前のフロアでは、片づけの音だけが薄く続いていた。
牧野は何も言わなかった。
「帰ってください」
「言われなくても帰る」
「今日だけは、その言葉を信用します」
アゼルは、画面の端で何も言わなかった。
何も言わないまま、僕を予定通りに席から立たせた。
◇
十八時ちょうど、僕は退館ゲートを通った。
透明なゲートに、僕の名前と退館時刻だけが出る。
そこには、契約も悪魔も出ない。
胸ポケットのスマートフォンも、ただの持ち物として扱われる。
外に出ると、研究所地区の夕方はまだ明るかった。
道路の端を小型バスが静かに走り、歩道の上では配送ロボットが信号待ちをしている。
ビルの壁面広告は、通行人に合わせて内容を変えない。
画面の端には「顔追跡なし」と小さく出ている。
その表示で少し安心してしまうあたり、僕もかなり訓練されている。
研究所の敷地を出るには、もう一つ小さなゲートを通る。
退館ゲートほど厳重ではない。
外周の歩行者ゲートだ。
所属区画を出た時刻と、貸与端末を持ち出していないことだけを確認する。
仕事用端末は置いてきた。
胸ポケットにあるのは個人端末だけだ。
それでも、今日の仕事を自分で回したという感覚は、どこか薄かった。
ゲート脇のサイネージには、今日の研究所地区の移動状況が出ていた。
退館ピークは十八時十分。
地下鉄北口は混雑予測。
南口は通常。
シャトルバスは三分遅れ。
ただの案内だ。
そう分かっているのに、僕の足は南口へ向かいかける。
そこで、いったん立ち止まった。
南口へ行く理由はある。
混雑が少ない。
地下鉄の前方車両に乗りやすい。
家に帰るには、その方が少し速い。
だが、僕がそう考えるより先に、サイネージの南口だけが少し明るくなっていた。
胸ポケットの中で、まだ出していないスマートフォンが震えた。
スマートグラスの視界端にも、通知の細い縁だけが出た。
同じタイミングで、グラスのつるからアゼルの声が小さく入った。
「読んでいるわね」
「今は読んでない」
小声で返してから、自分が返事をしたことに気づく。
周囲の人間は誰も見ない。
みんな、それぞれのAIに何かを返している。
僕の小声も、その中に紛れた。
そのことの方が、おかしかった。
胸ポケットのスマートフォンが震えた。
僕は一度だけ無視した。
もう一度、震えた。
負けて、取り出す。
画面の隅に、小さな黒いアバターが出ていた。
研究所の仕事用端末にいた時より、表示は簡素だった。
角も翼も小さくなり、尻尾に見えるコードだけが、画面の縁で短く揺れている。
「お疲れさま、玲央」
「外で玲央って呼ぶな」
「では、三嶋さん」
「業務支援AIのフリを続けるな」
「もう業務時間外よ」
口調が変わった。
研究所でまとっていた丁寧さが抜け、少し低めで澄んだ声に、こちらを試すような軽さが戻っていた。
「帰るだけだ」
「社会見学をしましょう」
「しない」
「帰る途中に見るだけです」
「それを社会見学と言うな」
「では、経路観察」
「もっと嫌だ」
駅へ向かう人の流れに入る。
研究所地区の歩道は、夕方になると人間より光の方が多く見える。
足元の誘導ラインが、混雑に合わせて薄く曲がる。
信号機は車両より先に歩行者の密度を読み、配送ロボットの待機場所をずらす。
建物の壁面広告には、「顔追跡なし」の小さな表示が添えられていた。
追跡しない。
保存しない。
個人を特定しない。
安心させるための文言が、あちこちに貼られている。
貼られていること自体が、何かをしている証拠でもある。
「あれも読むべき?」
アゼルが言った。
「広告の免責表示まで読む人生は嫌だ」
「読まない者から奪うのでしょう」
「僕の言葉じゃない」
「私の言葉でもないわ。契約の性質よ」
画面の中で、アゼルは街を眺めるように目を細めていた。
スマートフォンのカメラを僕は起動していない。
それでも、彼女は当然のように話を続ける。
「今、どこまで見えている」
「あなたが見たもの。
あなたの端末が受け取ったもの。
あなたが注意を向けたもの」
「三つ目がいちばん嫌だ」
「いちばん便利でしょう」
僕は答えなかった。
研究所地区の地下鉄入口は、ガラスの庇の下にあった。
改札前で立ち止まる人はいない。
スマートフォンもカードも出さない。
足を止めず、身体だけがゲートの間を抜けていく。
タッチレスゲート。
顔認証ではない、という説明が床面に流れている。
端末の近接信号、勤務者ID、乗車権限、混雑課金。
いくつかの処理が、歩く速度で終わる。




