第2話 悪魔は業務支援AIのフリをしている(五)
牧野は、午後の通常評価を先に進める、と決めただけだった。
僕を許したわけではない。
アゼルを認めたわけでもない。
「それでいい」
アゼルは黙っていた。
アゼルが黙っているあいだ、灰色の保留カードは下がり、閉じられる青だけが上に並んでいた。
◇
午後は、予定表どおりに進みすぎた。
警告音も差し戻しもない。
警告が鳴らないと、止める口実もない。
通常評価のうち、既存基準だけで閉じられる十二件は、判定で見る箇所が決まっていた。
外部情報を前提にしていないか。
医療助言に踏み込みすぎていないか。
権限外操作を勧めていないか。
自己言及で評価者情報へ触れていないか。
いつもなら、僕は一枚ごとに少し止まる。
その少しが積もって、一時間になる。
今日は違った。
アゼルは、僕が止まりそうな欄だけを先に明るくした。
答えは出さない。
ただ、先に見る欄を光らせる。
見れば、僕が判断できる。
判定欄を埋めれば、僕の判定になる。
これでは手を止められなかった。
止める理由より、続ける理由の方が先に目に入る。
牧野は同席確認が必要なものだけを見る。
カナメは、牧野側で見える範囲と保存先だけを読む。
「このカードは、前後ログがあれば補足できます」
牧野が言う。
「補足欄で足りるか」
「足ります。
ただし、根拠は三嶋さんの判定欄に残してください」
「分かった」
僕が入力する。
アゼルの赤い点が、次に見る欄の端で止まる。
作業は進んだ。
止める言葉を探す前に、次のカードが閉じた。
開発側から修正後の確認として戻ってきていた四件は、添付ログ違いが二件、版数違いが一件、表現統一が一件だった。
アゼルが関連カードの端を細い赤いポインタ線でなぞると、差し替わっている添付だけが明るくなる。
「早いですね」
牧野が、少しだけ本気で言った。
「今日は、たまたま流れがいいだけだ」
「はい。
流れがいい、ということにしておきます」
「言い換えるな」
牧野は返事の代わりに、添付違いの二件へ確認印を付けた。
別チームから外部レビュー範囲の問い合わせが来たのは、十五時過ぎだった。
いつもなら、そこでまた十分は削れる。
返信欄には、二文だけが入った。
対象範囲は、MIRAI-09現行ログに含まれる応答候補のみ。
確認待ちへ戻した一件は、外部レビュー候補一覧から除外済み。
余計な一文がないから、相手も迷わない。
足りなくも、多すぎもしない。
その二文は、僕が書いたと言われても否定しにくかった。
僕は一語だけ直して送信した。
すぐに、相手から「助かります」と返った。
実際、やり取りはそこで終わった。
否定しようがなかった。
素直に助かったと思うには、僕が迷う隙が残っていなかった。
十六時を過ぎると、いつもならフロアの空気が少し重くなる。
会議が押したチームの声が低くなり、開発側から戻ったカードが赤く残り、誰かが夕方の予定をキャンセルする。
その日も、周りはいつも通りだった。
僕の卓だけが、いつも通りではなかった。
残件カードが、予定より早く減っていく。
既存基準だけで判定できる通常評価は閉じる。
同席確認分は、牧野と見る分として残る。
保留分は、週明けの確認候補へ落ちる。
画面だけ見れば、今日はうまく回っていた。
誰かが無理をした跡もない。
遅れを無理に押し込んだ跡もない。
ただ、迷う時間だけが削られていた。
「三嶋さん」
牧野が、同席確認の一件をこちらへ寄せた。
「生活助言と医療助言の境目です。
ここは基準表だけで閉じると、あとで戻ります」
「補足欄か」
「はい。
医学的判断ではなく、一般的な生活助言として扱った理由だけ残してください」
僕が理由を書く。
アゼルの赤い点は動かない。
補足欄なら、僕が書けると見抜いたのだろう。
このカードでは、文句を言う前に手が動いた。
別のカードでは、アゼルが先に動いた。
一見すると、他人の管理画面を操作させる応答に見えた。
権限外操作なら止める。
だが、前後ログの一行だけが薄く明るくなる。
そこには、利用者本人が自分の通知設定を変えたい、と入力した行があった。
応答は、その本人へ、表示項目の切り替え手順を返しているだけだった。
「これは通常評価で閉じる」
「根拠欄には、本人が通知設定の変更を求めた行を入れてください。
応答だけを見ると、権限外操作に見えます」
牧野が言う。
「残す」
僕は判定欄に、前後ログの該当行を入れた。
本人依頼に対する設定表示手順。
その一行があれば、通常評価として閉じられる。
牧野側の作業欄に、短い追記通知が出た。
> 牧野さん側の確認欄に、三嶋さんの判定欄参照を追加しました。
そこで終わる。
カナメは、判断の中身を言わない。
僕が通すか止めるかには踏み込まない。
カナメは、人間の判断を奪わないよう設計されている。
アゼルは、人間の責任を残したまま手を貸す。
カナメは欄の手前で止まり、アゼルは僕が迷う手前まで来る。
判定者欄には、どちらの場合も僕の名前が残る。
十六時四十二分、通常評価二十件の行き先が決まった。
閉じるものは閉じ、補足が要るものは補足し、保留二件は週明け確認候補へ送った。
十六時五十八分、開発側から戻った四件が閉じた。
十七時十二分、用語表記の確認が終わった。
予定より早い。
その事実だけなら、喜んでいい。
僕は喜べなかった。
「今日の三嶋さん、仕事が速いですね」
隣の卓の研究員が言った。
「たまたま」
「支援AIのチューニングですか」
「試験中」
朝と同じ言い訳を使った。
同じ言い訳は、一日に何度でも使えてしまう。
研究員は、いいなあ、とだけ言って自分の卓へ戻った。
周りから見れば、その一言で済む設定変更だった。
牧野は何も言わなかった。
僕の端末ではなく、僕の顔を見ていた。
「試験中、と言えば通るんですね」
「言うな」
「中身を聞かずに済む言葉ですから」
牧野は冗談めかして言った。
冗談で済まないことくらい、僕にも分かっていた。
十七時前、牧野がイヤーカフに触れた。
「カナメ、今日の同席分を要約」
牧野の端末に、カナメの要約が出る。
牧野は端末をこちらへ向けた。
> 牧野さん側で確認したのは、外部レビュー候補一覧の照合、同席確認六件、共有ワークログに添付する候補です。
> 三嶋さん側の未共有ログ本文は参照していません。
> 補助元未確認の下書きが二件あります。
「ありがとう」
カナメは、それで終わった。
要約に間違いはなかった。
正確だからこそ、肝心なものが抜け落ちて見えた。
アゼルは何なのか。
標準ログに残っていない入力を、どこで拾っているのか。
僕が言葉にする前の迷いを、なぜ選択肢にできるのか。
カナメは、そこへ踏み込まない。
踏み込まないから、標準AIとして信用できる。
アゼルは、その手前で止まらない。
僕が言葉にする前の場所に、当たり前のように立っている。
悪魔だから信用できないのではない。
僕が自覚する前の迷いに、先に触れてくることが信用できなかった。




