第20話 契約者補正の発覚(二)
現在時刻は十五時十二分。
神代に残された時間は、一時間四十八分だった。
◇
神代が提案を断っても、妹の標準診療は止まらない。
次年度も神経計測を使う研究枠を維持し、専任スタッフを付ける。
その費用を医療財団が負担する。
代わりに神代は、睡眠と覚醒の境界をまたぐ、九十六時間の連続神経計測へ参加する。
眠らずにいることを求める試験ではない。
脳波、眼球運動、微小筋電を四日間記録し、定時に認知課題を行う。脈拍と血圧の推移も測る。
財団は、過去の徹夜後も神代の脈拍、血圧、認知課題成績が崩れなかったことを、参加適性の根拠にしていた。
「眠れていないのに、眠らなくても動ける人間として選ばれた」
神代はVEIL越しに言った。
このところ、眠ろうと目を閉じても、意識が途切れない。
目を閉じた暗がりに、妹の病室で聞いた機器音が戻り、ネルガの投影が浮かぶ。
夢ではないと分かっている。それでも朝になると、何を思い出し、何をその夜に見たのか切り分けられなかった。
「財団には、その症状を伝えましたか」
玲央が聞いた。
「伝えました。だから計測価値がある、と返されました」
数値が安定していることは、苦痛がないことを意味しない。
認知課題を完了できることは、九十六時間の計測が安全だという判定でもない。
神代の背後に、ネルガの投影が立った。
「耐えられる」
それだけを告げた。
「耐えられるかどうかを聞いていない」
神代は振り向かなかった。
「妹の治療の選択肢を残すために、私が同意すべきかを聞いている」
ネルガは、神代の背後で輪郭一つ揺らさなかった。
耐えられるという言葉に嘘はない。
耐えられることと、引き受けるべきことの間は、埋まらなかった。
十六時四十分、財団から確認が入った。
[医療財団]
本提案は一体的な研究計画です。治療研究費のみを分離して受諾することはできません。
神代は同意欄を開いた。
妹の識別番号と、自分の識別番号が、同じ承諾ボタンの上に並んでいる。
「断れば、妹の可能性を私が狭めます」
「はい」
玲央は、同意欄に並ぶ二つの識別番号から目をそらさなかった。
その欄の先にある妹の可能性を、「研究枠」の一語へ縮めることはできなかった。
「それでも、妹さんの診療継続と、神代さんの身体同意は別です」
「別にできない契約を、別だと思って断るしかない」
神代は十六時五十八分に拒否を送った。
十七時を過ぎると、管理画面から神経計測研究枠が消えた。
専任スタッフの配置は解除され、次年度研究費の欄が灰色になった。
標準診療は残った。
失ったものが治療そのものではないからこそ、神代は失った可能性を数え続けた。
それでも、その日の認知課題成績は正常範囲を外れなかった。
眠れなかった人間の苦痛だけが、成績には現れなかった。
◇
エリカから届いた映像には、建物前の黒い搬送車が映っていた。
「もう来てる」
彼女はスマートフォンを窓から離した。
次世代クライミング義手の独占試験。
動力義手の装備認証費用。
復帰選考会と、認証済み招待大会への推薦。
勝利も、公式大会への出場も、企業が保証するわけではない。
だが、エリカが競技へ戻るために欠けていた条件を、ほとんど全部そろえていた。
条件欄には、義体本体、装着者、試験会場、停止担当を、事業者が一括管理するとあった。
移送中はスマートフォンを預け、外部との通信は遮断される。
存在しない右手の指先に、ざらついた岩の感触が戻った。
親指で縁を探し、人差し指へ重心を移す感覚。
実際の右手はなく、接続前の義手は作業台に置かれている。
エリカは幻の指を握ろうとして、左手だけを閉じた。
「停止担当を私が選ぶ。搬送にも同乗させる」
企業の担当者は、スマートフォンの画面で首を振った。
「試験機の機密を扱うため、当社認定者に限ります」
「私が止めろと言った時、誰が止める」
「安全管理責任者です」
「名前は」
「会場到着後に開示します」
「会場は」
「機密保持同意後に開示します」
移送先は、同意するまで分からない。
身体につながった機械を止める人は、会場へ着くまで分からない。
[VEIL/注意喚起]
スマートフォンを預けるなら、その間の連絡方法を確保すること。
同じ文面が、エリカの画面にも残っていた。
エリカは、企業とのビデオ通話を保留にした。
グラシャの像が、作業台の向こうに現れた。
「乗れば、失った速度を取り戻せる」
「分かってる」
「あの壁を、前より速く登れる」
「それも分かってる」
グラシャは嘘をついていない。
速度を取り戻せる可能性はあった。
前より速く動く義手を、誰がどこで止められるのかだけは、言わなかった。
エリカはビデオ通話を戻し、企業の参加回答欄へ一行を入力した。
[参加回答/エリカ]
停止担当と移送先を私が選べない試験には参加しない。
搬送車は、建物前で待機を続けていた。
送信を確認した担当者が、ビデオ通話の画面で、辞退すれば認証費用と推薦も得られないと念を押した。
「承知している」
「今回を辞退した場合、次回選考の優先枠は失効します」
「承知している」
十六分後、搬送車は出発した。
エリカを乗せずに。
作業台には、試験機より遅い通常制御の右義手が残った。
エリカは自分で接続し、動作確認を終えると、床の工具箱へ指を掛けた。
右手の反応が半拍遅れ、箱が傾いた。
そばにいた整備士が腕を伸ばしかける。
「待って。自分でやる」
エリカは箱を床へ戻し、握り直した。
二度目は、遅い反応に合わせて左手を添えた。
工具箱は上がった。
速くはなかった。
整備士の手は、最後まで工具箱に触れなかった。
◇
ラーフルとのVEIL通話で、投資会社の提案書が共有されていた。
前回の独占契約案を出し直したものだった。
投資会社が欲しいのは、MBRA-1が作る四十八案そのものではない。
ラーフルが前回使った方法で、注文期限までに四案へ絞った結果だった。
その選別をオロバスが行っていることを、会社は知らない。
ラーフルがいれば四案が間に合い、外せば代替できないと把握しているだけだった。
今回は、長時間の注文処理後も脈拍が一定だった記録を、連続予測を任せられる根拠に加えていた。
投資会社が引き受けるものは、前回より増えていた。
前回撤回された、小口口座への補填準備金。
採用案の実行後、損失が契約基準を超えた場合の補填枠。
選別結果を理由に、ラーフル個人へ損失責任を求めない条項。
選別結果を巡る規制対応。
凍結された市場分岐研究の資金。
高精度計算設備の利用権。
技術責任者への復帰審査。
契約が成立すれば、被害を受けた口座への補填が動く。
次の危機で基準を超える損失が出ても、補填と規制対応は投資会社が引き受ける。
ラーフルは研究環境を取り戻し、技術責任者への復帰審査も受けられる。




