36.ただ生きるのではなく、善く(正しく)生きることこそが最も大切である
『帰る?そんなのは簡単だろう。猫にしても鼠にしても自由に行き来している。適当に歩き回れば帰られると考える。ただ、あの扉は開かない。今まで開いたことがない』
アダムは、そう言ってフロアの向こうの大きな扉を指さした。
僕は、急いで帰らないといけないと理解しつつも、どことなくこのアダムという猿と別れるのが寂しいというか、勿体なく思っていいる。
それは良兼准教授も同じようで、このチャンスを逃すものかとアダムに早口で語り続けている。
それでも時間は過ぎていく。
それは体感として重く速い。
帰らなければならないという気持ちが、アダムとの邂逅を楽しむ気持ちを、ドンドン押しやっていく。
『さて、君たちには時間がないのだろう。そろそろお開きにしよう。縁と偶然が再び合わさったならば、また話す機会もあるだろう』
僕の気持ちを察したのか、アダムは時間の終焉を告げてくれた。
『ココには色んなモノたちがやって来る。肥った犬だか、けたたましいカナリヤだとか、当然鼠も梟も。我々は、いつでもウェルカムだ。でも、猫だけは許せない。あいつだけは絶対に許せない』
「何かあったんですか?」
アダムの剣幕に恐る恐る聞いてみる。
『あの猫は、やって来てはボリボリと毛を撒き散らし、蚤やら壁蝨、虱を落としていく。それも、所構わずだ!この間も階段で蚤を撒き散らして大変だった。それにな、それに、何処ででも爪を研ぐ。分かるか、この大階段の手摺に施された細かなレリーフだろうと、カーペットだろうと、何も気にする事無く爪を研いでいくのだ。更にな、更にだ────』
アダムの不満は尽きることなく紡がれ続ける。
僕は良兼准教授の手を引き、帰る旨を伝える。良兼准教授も(渋々といった表情で)頷いて僕の握る手に少し力を入れた。
「アダム殿、また会えることを希望して、今日はお暇させていただく」
「あ、楽しかったです。また会いたいです」
『私も面白かった。ヨシカネもヤマダもまた話をしよう。あ、ただ最後にこれだけは聞いてくれ。万一もう会えないとなった場合に、伝えておかないと後悔する気がする。特にヤマダよ』
アダムは、僕の目をじっと見つめて語った。
『今の君は哲学者の跡を見つけて喜んでいるコレクターでしかない。自分の事を子供だからと思考の淵に立つのを怖がっているのではないか?子供?子供で良いではないか。哲学とは、元々子供っぽいものだ。ただ、分からないを純粋に追求することが哲学なんだから。降りたまえ先人の足跡から。自分の足で歩くんだ。思考の淵の更に深い所を覗いてごらん。自分で覗くんだ。人が覗いたものを聞くのではない。そうしたら、君自身が哲学者だ』
ヨシカネもまだまだだがね──そう言葉を閉じた。
「ありがとうございます!」
僕は応えて歩き出す。
良兼准教授の手を引いて。
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「キャイキィ」
──カチャカチャ
「じゃあ、また」
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「キャイキィ」
──カチャカチャ
「じゃあ、また」
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「キャイキィ」
──カチャカチャ
「じゃあ、また」
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「あのぉ、どうしたら帰れるんでしょう?」
何周となく室内を歩き回る。アダムと目が合う度に、彼も居辛そうに声をかけてくれる。でも、その空気が痛い。多分、お互いに痛い。
「あ、そうだ、アダム殿。アダム殿は感情が伝染するウイルスのようと言っていましたな」
歩き疲れたのだろう。良兼准教授が立ち止まり、何もなかったかのように話始めた。
「近年の研究では、人間以外の哺乳類や鳥類にも感情はあるとされていますよ。それこそ喜んだり怒ったり、その上、共感や不満の感情があるというのが通説です」
ただ、確かに野生動物に比べて人に近い所で生活する動物の方が感情の表現や振り幅が大きいとは思う。それは、命の危険性が関係しているのではないだろうか。
特に人間にしては、大多数の国家の人に命の危険というものは殆ど無く、死は非日常だと考えられる。その代わり、人は社会生活内においでの死というものに晒されている。
感情と言うのは、社会的な危険から自身を守る為の安全具となっているの考えられる。
喜怒哀楽で説明すると、『喜』は、生存に必要となってくるプラスとなる事を喜ばしい事として繰り返し行うような道標だと考えることができる。
『怒』は、怒りにより自分の心を守る防衛手段。『哀』は、喪失などの心的ダメージから回復するために哀しむという行動で活動を制御し、心身を休ませる。『楽』は、心が満たされた状態であり、ストレスから解き放たれて心身のバランスを保つのではないか。
つまりは、人間に飼われる動物というものも、危険というものが、肉体的なモノから精神的なモノにシフトしてしまっている事が、伝染するウイルスのように見えてしまっているのではないか。
「キャ⋯⋯⋯⋯キィ⋯⋯⋯⋯」
──カチャ カチャ
「そう⋯⋯か、そう⋯⋯だな⋯⋯⋯⋯」
『流石はヨシカネだ。そうか、そう考えれば、直ぐに回答が得られたのか⋯⋯。でも、私がココで深く考えたという事は、私にとって大きな意味のあるものだ⋯⋯ったはずだ⋯⋯⋯⋯』
「すまない。そんな風に答えを断定するつもりはなかった⋯⋯。いいかね────」
そう言いながら、アダムに一歩近付いた良兼准教授の姿が消えた。
その手を握っていた僕も一歩つられるように足が出て、暗い通路に踏み入れていた。
最後に見たアダムは、寂しそうな、哀しそうな、それでいてスッキリしているようで──。




