34.私が知っているのは、自分が何も知らないということだけだ③
『──イブは、激しい怒りを持っていた。それは今まで存在しない激しいものだった』
僕は、アダムの話を聞いていた。
聞きながら、横目で俯きながらブツブツと呟く良兼准教授を眺めている。
アダムの話は、良兼准教授に見せられたあのコピー用紙の内容を噛み砕いたものだった。
静かに芽吹いていく、野生には存在しなかった感情。それは喜怒哀楽の形で精神に侵食していく。アダムは、それを病気のようだと言っている。ウイルスのようだと。その形のない感情とはどのようなものであるか、アダムはそれを考えている。自分の考えをプリントアウトしては読み返し、論理を俯瞰して見ては、纏め直す。その繰り返しの果てにいつか正解に辿り着けると信じている。
いや、思考する者がアダムしかいないココでは、それしか方法が無いのかもしれない。
「でも、そのイブっていうお猿さんは、どうして怒ったの?」
『嫉妬のようなものだろう』
「嫉妬?」
『でも、依存や独占欲から発生するような嫉妬ではないと考える。イブにとっては、世界を構成する全ては自分を起点としていると思っているんだろう。自分以外の存在が、自分より大事にされたり、構われたりするのが許せないんだろう。だから、私は殺された』
「殺されたって⋯⋯。アダムは死んでるの?」
『分からない。あの日、私はイブに刺された。いや、そんな生やさしいものではなかったろう。滅多刺しというやつだ。ほら、見てごらん、私の背中を』
そう言って、背を向けて見せてくれた背中には、毛皮の奥に夥しい刺し傷と滲んだ血が毛ごと固まってできた血団子があった。
「痛くないの?」
『うむ、それがよく分からないのだ。気にすると痛いが、気にしないと忘れている』
「アダムの死体は発見されていない。血痕を残して行方不明となっている」
再び再起動した良兼准教授が一歩近付きながら口を開いた。
「目の前の猿がアダムだとするのなら、君は死んでいないのだと考えられる。それこそ、今の我々のようにこの世界に紛れ込んだのではないかと。その時、君も猫を見たのではないか?」
アダムの目が、ちょっと嬉しそうに瞳に光を灯した。
『今更会話に参入してくるのか。残念なヨシカネ』
「失望させたようで申し訳ない。だがな、いいかね、そうでなくとも町の人々の感情が激しくゆれう揺れ動くという異常事態の中で、突然見知らぬ世界に来てしまったのだ。冷静な判断などできるものではないではないか」
『だが、ヤマダはすぐに適応した』
「年齢が違う。単純に年のせいにしたくはないのだが、いいかね、人は経験の中で自己を形成していく。それは成長であり熟成であるのだが、それ故に繰り返し経験してきて培った常識という枷から抜ける事が困難になるのだ。山田少年には敵わないが、この短時間で心を立て直した事に関しては賞賛して欲しいものだ」
『おお、これは素晴らしい。流石はヨシカネだ──これで宜しいかな』
「少し、いや、かなり癇に障るが、賞賛として受け取ろう。で、猫を見たのか?」
アダムは嬉しそうに、でも少し忌々しそうに語った。
血だらけでイブから逃げながらトラ猫を見たと。自分達が観察される檻の中、居る筈のない虎柄と猫がいた。救いを求め、夢中で手も伸ばした時、この世界に落ちたのだと。
その時、ココには色の薄い子猿とオウムがいた。その子猿が自分とイブの子であるカインであると直ぐに理解した。それから、ココが何なのかを考え、自分達に何が起こったのかを探り続け、感情について考えるに至ったのだと。
「カインは、生きている」
『ああ、向こうで身体は生きている』
「植物状態⋯⋯。そうか、心だけがココに来ていたのか」
『私もそこに至った』
「では、ココは⋯⋯⋯⋯深層心理世界」
『そうだ、フロイトの深層心理が顕在化した世界と言えるのではないか』
「いや、フロイトの深層心理というよりも、ユングの集団的無意識が形成した空間と言う方が良いのか⋯⋯」
『ハハハ、面白い。やっとヨシカネがヨシカネになった』
「ねぇねぇ、ココが色んな生き物の共通する無意識界だとすると、どうなるの?」
「ふむ。いいかね、ココが共通の無意識だとすると、ココで考えた事、起こっているこ事が、各人の深層心理に影響を与えるという事だ」
「つまりは、ココでアダムが感情について考えてるから、町の大多数の人があんなになっちゃったって事⋯⋯だよね」
『おお、やっぱりそこに行き着いたか。私もそうではないかと考え始めていたのだが、〝感情は感染する〟という命題が捨てきれなくて、悩んでいたのだ』
嬉しそうに口をモゴモゴと動かすアダムを見て、僕と良兼准教授は開いた口が塞がらなかった。
「だとしたら、ココからアダムを連れ出したら、町の人々は元に戻るんじゃないかな」
「うむ⋯⋯だとは思うが、難しい⋯⋯だろう」
「なぜ?」
「私は、事件現場を見ている。檻に残された大量の血痕。おそらく、向こうでのアダムは死ぬ間際。おそらく、ココから連れ出した瞬間に死ぬ可能性がある」
「だったら、ほっておいたら⋯⋯」
「その次の言葉は言うべきじゃない。仮にココで何者かが死んだとする。それは、共通の無意識界に死が存在するという事。いいかね、皆の深層心理に死が横たわるのだ。それが各人の心にどんな影響を与えるか⋯⋯想像できるだろう。だから、現状維持するしかない」
僕と良兼准教授の会話は続く事ができなかった。
『まあ、ヤマダとヨシカネの様子から向こうの状態は理解できた。予想通りといったところか』
アダムが納得したように口を開いた。
『まあ、向こうの危険と言ったら、イブくらいか。あれは、感情が激しく揺れ動くよりも前から異常な気性を持っていた。今、どうなっていることか』
えっ、イブってまだ大学に居るんだよね。危ない。早く帰って、皆んなに教えなくちゃ。
って、僕たち帰れるの?
ココからどうやって出ればいいの?
僕は、当たり前の疑問を忘れていた。




