33.私が知っているのは、自分が何も知らないということだけだ②
『──なるほど、つまりヤマダは語源とか、名言というものに興味を惹かれているのだな』
「それでね、黒瀬さんも知っていると思うんだ。学校でね、コギト・エルゴ・スムをもじってるのを聞いたから」
『なるほど──』
僕は大階段に移動していた。アダムと名乗る猿の横に座っている。
アダムは相変わらずウキキウキキとしか言わない。子猿のノートパソコンを通じてオウムが喋るという回りくどい会話であったが、気が付けば、それは気にならなくなっていた。いやそれどころか、その会話のタイムラグが僕に行間を考える時間をくれていた。それがより会話を楽しませてくれる。
少し離れているけど、甲高いオウムの声は不思議なほど通り、聞き逃すことは無い。
「──でね、皆んな凄く怒りだしたんだ」
『ほう、皆んなとは、100%全員という意味で良いのか?ヤマダも含めて?』
「ん、僕はそうでも無かった。んと、だとしたら、皆んなは可怪しいかな。ん〜、皆んなと言っても、世界中がそうだとか、日本中がそうだとかは分からないから、僕が出合った大多数の人かな」
『なるほど、まだ具体的な情報ではないが、皆んなという表現よりも幾分か理解しやすくなった。不思議なもので、皆んなという表現は、会話の中では逆に一部の特定の人数ではないかと勘繰ってしまうのだ』
「あっ、分かる⋯⋯ます、分かります──」
アダムの不思議なほどの話しやすさと知的な雰囲気が、僕の口調を彷徨わせる。ため口と敬語の間を行ったり来たりする僕の語尾をアダムは気にしない。
「マキちゃ⋯⋯吉岡さんとか、二人くらいでクラス全員。五人もいると日本全人口。多分、八人くらいで、世界中になるんじゃないかな」
『ハハハ、だとしたら、ヤマダとヨシカネの二人がいるここには全世界の四分の一の人類がいる訳だ』
そう言いながら、今だにフリーズしている良兼准教授を一瞥すると、アダムは柔らかそうな口をムグムグと動かす。
「あ、そう言えば、亮太兄ちゃん、ん、高遠さんも怒ったりしなかった」
『リョウタ⋯⋯タカトウ⋯⋯。タカトウリョウタ、知っている。知ってる、タカトウリョウタ。苗字と名前を知っている数少ない人だ。そう、後はハットリシノブ、ゴトウミヤビ、ん、あれはマサとも呼ばれていたな』
「雅お姉さんの事も知ってるんだ。雅お姉さんは、怒ったり、泣いたりしてたよ」
『ほう、ゴトウが怒ったり泣いたりか。あれは面白いぞ。いつも表情を変えず冷静にとしているのだろうな。周りがどんなに騒いでも大きく表情を変えるようなことはしない。それでも、私や他の動物達が怪我でもして血を出そうものなら、途端に眉尻を下げて泣きそうな顔でオタオタする。心根の弱い娘だ。本当に表情の変化が少ないのに、感情の移ろいは激しい』
訳知り顔のアダムは遠い目をした。
ほぼ黒目だけの猿でも遠い目をしているのが分かるのが分かる自分って凄いと思う。いや、人間臭いアダムが凄いのか?
「って、外の状況が分かるの?」
『分かるという程ではない。想像はついていた。そして、確信に変わりかけている』
「え?」
「って、ちょっと待ちたまえぇぇぇぇ!」
フリーズが解消したであろう良兼准教授が叫びながらこちらに近付いてくる。
「何故君は、この状況で普通に会話をしているのかね?可怪しいとは考えないのかね?ここは何処だというのかね?大学の研究準備室からどうやって来た?ここは何処だ?何故、猿と会話している?アダム?何故、行方不明の猿がいる?何故、オウムが喋るというのかねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
「ウキキャウキャキャキウキッウキキキィキィキイ」
──カチャカチャカチャカチャカチャカチャ
良兼准教授の声に驚いたオウムが翼をバタバタと動かしているので、ノートパソコンを読めていない。
「あのぉ、ここが何処かというのを二回言われてましたけど、ここが何処かは分かりません。猫を追って来ただけです。で、アダムさんは猿だけど話が通じるので、話をします。でも、猿だから言葉を喋れません。だから、オウムが代わりに喋っています」
「何故、君はそんなにも冷静に答えるのだ。いいかね、そもそも、猿の知能というのは、人間の三歳程度だと言われているのだぞ。いいかね、今のような言葉のキャッチボールなどできるはずがないのだ」
「でも、できています」
「不可能だ。いいかね、不可能なんだよ」
『酷いものだ。オウムが怯えてしまったではないか。不可能と言ったね。ヨシカネは頭が固いのか。あそこではそうとは思わなかったのだが』
落ち着きを取り戻したオウムが話始める。
暴れていた時に読み飛ばした部分が気になるけど、黙っておこう。
それよりも『あそこ』っていうのは何処なんだろう?顔見知りみたいだし、アダムは亮太兄ちゃんも雅お姉さんも知っているみたいだから、大学の研究室にいたんだろうか?
『人間は不可能なことは信じられないものよ。あなたもまだ信じる練習が足りないんじゃないかしら』
急に変わったアダムの(?)口調に、良兼准教授は再びフリーズする。
良兼准教授から返事が無いことに気が付いたアダムが、こちらを見る。
「アリスですよね。ルイス・キャロル」
『流石、よくわかったね、ヤマダ』
「いやいやいや、ちょっと待ってくれ、ルイス・キャロルと言うと、アリスかジャバウォックの詩、スナーク狩りくらいだろ、そんなセリフがあったか?」
「良兼准教授、今のセリフは鏡の国のアリスです」
「鏡⋯⋯鏡かぁ」
『ヨシカネよ、今のセリフは白の女王のセリフだが、不思議にしても鏡にしてもアリスシリーズは、〝信じられないものを信じる〟という事をテーマにしているように捉えている、そこから考えるにこのセリフからアリスに結びつけるのは可能である。ヨシカネが鏡の国のアリス自体を読んでいないにしてもだ。違うのかな?』
「ぐっ⋯⋯⋯⋯」
『ヤマダよ、ヨシカネは面白くない。あそこでも薄っすらと思っていた。ヨシカネは、自己の中の発想が、他者から見て特殊だという事にのみに優れ、特化している。自己の発想が違っていれば、また新しく発想するだけ。他者に認められる事はあっても、心から他者を認めることはないように見受けられた。だから、他者を容認しようという柔軟さに乏しい。稀にヨシカネが引き合いに出している過去の偉人の考えも、本来はこうであったという社会通念も、歴史を経ているだけで、他者の考えであったというのに⋯⋯。それでも、語りあう上では、ヨシカネは面白いのではないかと思っていたのに、残念だ』
アダムは怒っているというよりも、呆れているようだ。
『それよりヤマダ、私はここで感情というものについて考えているのだ。』
「感情⋯⋯⋯⋯」
何となく嬉しそうに僕に語りかけてくるアダムの感情の事よりも、僕は何度目か分からないくらいフリーズしている良兼准教授の感情の方が気になっていた。




