32.私が知っているのは、自分が何も知らないということだけだ①
猫がいた。
動画で観たトラ猫だ。
僕と視線が合うと、猫は視線を外して、ゆっくりと歩き始める。
何を考えるでもなく、僕は猫を追っていた。ただ猫だけを見つめ、追っていく。
知らないうちにかなりの歩数を歩いたと思う。それは部屋よりも長い距離。ドアを通ったという事も無ければ、窓をくぐり抜けたという事も無い。明るいも暗いも、周りの風景すら気にする事も無く、ただ猫だけを追っていた。
「ここは何なのかね」
僕はその声に足を止めた。
後ろからの声に、急に現実に引き戻される。
現実?
現実なの?
今まで大学の研究室っぽい所にいたよね。でも、ここは全然違う。広くて、薄暗くて、埃っぽくて、人がいない。
見渡す限り、僕の後ろに立つ良兼准教授だけだ。
「少年、君はここを何処だと考える?」
何処と言われても、理解できない。
僕はただ猫の後を追っただけ。気が付いたらここに居て、誰も居なくて、良兼准教授に話しかけられて⋯⋯猫を見失った。
まるで、中世ヨーロッパの映画の中みたいな所だ。舞踏会でも行われそうな広間に広く大きな階段。いや、もう少し狭いか、エントランスのような感じ?と、すると、階段の反対側にある大きな扉は出入口なのかな?明かりは有る。でも、壁の上の方にポツポツとランタンのような灯が幽かに照らしているだけで、全体を照らすには全く足りていない。天井から吊るされている大きなシャンデリアは、暗闇の中でひっそりと佇んでいる。
「どこ⋯⋯でしょう⋯⋯⋯⋯」
言いかけた時に、広間の真ん中に小さな光を見た。間接照明のように何かを照らしている。何かは分からない。
「ウキキキホウホウギキャキャ」
大階段から動物の鳴き声がした。
猿?
──カチャカチャカチャカチャカチャ
キーボードを叩く音がする。
さっきの広間の真ん中の間接照明ぽい所から。
「またあの狂った迷路猫が、何者かを連れてきおったか」
今度は、甲高い声が聞こえた。
キーボードと同じ方向から。
理解不能な状況に、僕が何も言えずに見上げると、横に並んできた良兼准教授が思案げな顔をしていた。
「キキャウキキキギギャホッホッホ」
──カチャカチャカチャカチャカチャ
「何者なのだ?どうした、返事もできんのか」
明らかにこちらに問うている。
「失礼した。私は良兼と申します。失礼ですが、どちらに返事をすれば宜しいのでしょうかな」
「クキャキャウキィウキィキッキャッキ」
──カチャカチャカチャカチャカチャ
「ああ、こちらで構わない」
「ウキャキャキャウキッ」
──カチャカチャカチャ
「こら、そこは私の方と打ちなさい」
「キャッキュキィウキィ」
──カチャカチャカチャ
「階段の方だ。階段」
段々と薄暗さに慣れてきた目に、大階段の中程に座り吠えている猿と広間の中程にしゃがみ込んでノートパソコンを打っている子猿、その肩にオウムが入ってきた。
どうやら、大階段の猿の言葉を子猿がパソコンに入力し、その文字をオウムが語っているらしい。そして、ここまでの猿たちの様子から、良兼准教授が見せてくれたあの紙が、この猿たちによって成された物だと確信できていた。
「それでは、ここは何処で、貴方がたは何なのでしょうか?」
良兼准教授は、丁寧な言葉だ。
それに対し猿は、質問に対する回答を拒否し、僕たちの事を教えるように促してきた。
「そんな事より、今はきちんと自己紹介をしようではないか。ヨシカネ、君とは会ったことがあったはずだが、そちらの小さい人は誰かな?」
猿さんと良兼准教授が顔見知り?
猿の会ったことがあるという発言に言葉を失い、思案気な表情になる良兼准教授を他所に?僕は言葉を返す。
「僕の名前は、山田祥太郎。小学校六年生です」
「ウキャキョホウホウホウキィウキャイキャッ」
──カチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャ
「長い名前だな。ヤマダショウタロウショウガッコウロクネンセイ。いや、ショウガッコウロクネンセイは所属か」
ハハハ、知っているぞ、苗字と名前という考え方だ。と、言う事はヤマダが苗字で、ショウタロウが名前だ。分かるぞ。でも、名前はと言っておきながら苗字を言うのは何故だ?では、先程のヨシカネというのも苗字なのか?何故、名前が苗字で、名前が名前────
そんな事をオウムに呟かせながら、猿はウキキウキキと言っている。
「ん、もしや、アダムか?」
突然閃いたような良兼准教授の言葉に、猿は呟きを止める。
「ウキキキキィキィウィキキィキィ」
──カチャカチャカチャカチャカチャ
「今頃分かったのですか?」
ヨシカネさん、人の世界て生きる貴方が何匹の猿と出合うというのですか?その数少ない接触経験のある猿ですら判断つかない何て、なんと無様な⋯⋯。いえ、違うのでしょう。接触経験が少ないからこそ、個体差の判断基準が自己の中で出来上がっていないのかもしれない。いわ、待てよ、だとしたら、「ヨシカネ、君とは会ったことがあったはずだが──」と言ってから返答があるまでの時間がかかり過ぎている。つまりは、あの言葉から、自分が目の前の猿に対して以前出会っているという情報が正確に認識出来なかったということか、若しくは今までに接触した猿の中からこのアダムという猿を照らし合わせるのに時間が掛かったということなのか?自身の記憶の演算能力が低いということか?
どうなんだい?
「汝自らを知れ⋯⋯⋯⋯」
僕はつい呟いていた。
自分の事をアダムと語る猿の暴言にも似た辛辣過ぎる問に呆然とフリーズする良兼准教授を見ていたら、つい溢れた言葉だ。
アダムは僕の呟きをとらえると、いつもの回りくどい段取りで、僕に語ってきた。
『汝自らを知れ──ソクラテスの言葉か。たしか、古代ギリシャのデルポイのアポロン神殿に刻まれた格言だったはずだね。自分自身の無知を自覚することこそが、あらゆる知恵の始まりである(無知の知)と説いたソクラテスが、この言葉を自身の探求の出発点とした事は有名だ。だが、見たところ、そこのヨシカネよりも年若く、私が今まで接したどの人々よりも幼く見えるヤマダがその言葉を知っているとは、面白い』
僕は、アダムから感じられる一流の学者のような雰囲気に呑まれながらも、言葉を返す。
「ほ、僕は、自分だけが知っている事を探すのが好きで⋯⋯」
『つまりは、ヤマダは〝善〟だと言うことなのだな。先程出たソクラテスから引用するならば、「唯一の善は知識であり、唯一の悪は無知である」という言葉がある──』
アダムは語り続けている。でも、僕はそんな事よりも、今まで口に出した事の無かった、自分だけが知っているはずの事をつい口に出してしまった事に戸惑っていた。そして、自分だけが知っているはずの事が、お猿さんですら知っていたという事実に驚愕していた。
『──でも、ヤマダよ。「知って行わざれば、知らざるに同じ」と貝原益軒 は述べているし、「知ることだけでは十分ではない。それを使わなくてはいけない。やる気だけでは十分ではない。実行しなくてはいけない」とゲーテも言っている。さらには、アインシュタインも「情報は知識にあらず」と言っているのだよ。私は、ヤマダが知っている事だけで満足しているのか、それを理解し、使用しているのかは知らない。だが、「自分だけが知っている事」という言葉から、知るだけで満足しているのではないかと考えるのだよ』
僕は、自分の薄さを知った。
ソクラテスです。
同様の言葉で、
唯一の真の英知とは、自分が無知であることを知ることにある。
と、いうのもありますね。




