30.恋という狂気こそは、まさにこよなき幸いのために神々から授けられる②
「私はバージンよ!!!」
雅お姉さんが叫んだ告白が場を支配する。
僕?僕も知ってるよ。バージンって言葉の意味くらい。小学生も高学年になったら常識だよ。漫画とかにも出てくる言葉だし。処女とか聖母マリアとかって意味なんだよね。だとしたら、雅お姉さんは『私は聖母マリアよ』って言ってたの?って、違うって分かってます。
「「へっ?!」」
間の抜けた声は、前と横から聞こえた。男と亮太兄ちゃんだ。
明らかに狼狽えた男が一歩二歩と前に出る。
隠れていた良兼准教授が網を構えて⋯⋯
「バーカ。気付いてるよ」
男が首を後ろに向ける。
「白衣なんか着て隠れてんじゃねぇよ。目立つんだよ!その虫取り網もなぁ!」
作戦失敗。
虫取り網を構えたまま立ち尽くす良兼准教授。そりゃあ目立つよね、なんて感想を漏らす間もなく、僕は走り出す。
そのままの勢いで、手に持った週刊少年雑誌の一番硬い背表紙で男の脛を打つ。
──コーーン
「痛っ!あ、いってぇなぁ、このガキが!」
「でかしたぞ少年」
視線から外れた良兼准教授が、虫取り網を男の頭から被せて体勢を崩す。
順番が代わっちゃったけど、次は亮太兄ちゃんの番。ペットボトルの中の炭酸水を男の顔にかけて目潰────
「へっ?」(僕)
「えっ!」(翠ちゃん)
「はあ?!」(良兼准教授)
ペットボトルは、男のズボンに差し込まれていた。
ベルトの所とお腹に挟まれたペットボトルがコポコポと音を奏でながら流れていく。その度におしっこ漏らしたみたいに股間から足にかけてシミが広がる。スーツの灰色のズボンが色を濃く変えていく。
何で?
何でソコ?
いや、絶対に違うでしょ。
何?そのドヤ顔。ねぇ亮太兄ちゃん。
あ〜あ、作戦失⋯⋯敗⋯⋯⋯⋯
ん?
「な、何するんだよ。これ、漏らしたみたいじゃんか。格好悪い⋯⋯。こんなんで後藤さんの前に立てやしないじゃないか。あ〜〜」
あっ、股間が冷やされて冷静になった?
熱中症の時に股間を冷やせば良いとか、誰かが言ってたし、ある意味正解なのかな?
でも、亮太兄ちゃんのドヤ顔が気になる。
「た、た、かぁ⋯⋯あ⋯⋯⋯⋯い、痛てぇ。いてぇいてぇいてぇいてぇいてぇいてぇいてぇいてぇいてぇいてぇ。玉がいてぇ!たぁ、たぁまぁが痛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
途端に目の前で転げ回る男の姿に、僕たちは呆然とするしかなかった。
「フッフッフッ、『超絶高濃度炭酸水──絶対5℃以下で保管してください』の威力をみたか!」
温泉で炭酸泉に入ったら玉がピリピリするから、もしかしてと試したら地獄の苦しみを味わってしまった。あの苦しみを誰かにもと思って、冷蔵庫に一本はと準備していたのだが、こんな場で使う機会があろうとは──って、力説している亮太兄ちゃん。確信的な犯行だったんだ。自分で試したんだ⋯⋯。
ちなみに、僕は『確信犯な犯行』って言ったけど、これは『確信犯』って短縮しちゃあ駄目なんだ。『確信犯』は、本来は政治的・宗教的・道徳的な信念に基づいて、本人が悪いことではないと信じて行う行為なんだ。今は、日常会話では悪いことだとわかっていながら、あえて確信的に行う行為として使われているんだよね。誤用の方が一般的になっちゃってるから、別に使っても問題ないんだけど、正しくは良くないんだよね。だから、僕は使わない。
股間を押さえてのたうち回る男と、虫取り網を持ってポカンとしている良兼准教授、漫画雑誌を抱えたままどうして良いのか分からないでいる翠ちゃん、腹を抱えて笑っている亮太兄ちゃん。うん、何となくわざとらしい。やっぱり亮太兄ちゃんの行動は感情を反映していない、劇が何かのように感じる。
十か二十か数えるほどの少しの時間がたって、皆んながちょっと落ち着いてきた時(男はまだ股間を押さえてピクピクしてる)、取り残された人が一人いた。
「亮太ーーーーーーーー!!!」
弾けるような声。
強張った全身を肩からプルプルと震わせながら雅お姉さんが真っ赤な顔で叫んだ。
その様相は正に『赤羅様』という感じで、僕が前に考えていた『あからさま』の漢字表記の赤羅様が本当にあるんだなんて、意味のない事を考えてしまうくらい、雅お姉さんは興奮しているように見える。
「だいたいにしてアンタがフラフラして、はっきりとしないから、こんな事になるんでしょうがっ!いつでもいつでもいつでもいつでもいつでも良い人ぶって、女の子のところをウロチョロして!」
大きく息を吸って。
「あたしの事、好きなんでしょうがぁぁぁぁ!はっきりと言えぇぇぇぇぇぇぇ!!」
気が付くと、亮太兄ちゃんは雅お姉さんの前で正座をしている。
雅お姉さんは、亮太兄ちゃんの膝に足を乗せて、グリグリと踵で踏み躙っていた。
「ねえねえ、これがツンデレ?SとM?」
興味津々な翠ちゃんが小声で聞いてくるけど、僕には分からないけど、違うと思う。
「おらぁ!好きなんだろ!あたしのバージンが欲しくないんかぁぁぁ!!!!!!」
「ほ、欲しいです!す、好きです!ずっとずっと好きです!ください!!」
お〜い。
こんな告白って大丈夫なの?
正直、初めて亮太兄ちゃんの素を見たような気がする。
「声が小さ〜い!」
「はい。好きです!!」
「もっと大きな声で!!」
「はい。大好きです!!」
「ちゃんと言えー!!!」
「後藤雅さん、ずっと好きでした!!!」
「なんで、過去形なんだー!!!!」
「ずっと好きです!未来永劫好きです!!!!」
何だこれ?
見回すと、目を見開いて二人を見つめ続ける翠ちゃん、お尻を突き出した尺取虫のようなうつ伏せでビクッビクッと痙攣している男、部屋の隅で蓑虫のようにガムテープでグルグル巻きにされたまま笑い続けてる服部教授と呼ばれたお爺さん。そして、僕の方を見つめたまま動かない良兼准教授。
僕を見つめてる?
いや、違う。ちょっとズレてる。
良兼准教授の視線を追って、僕は後ろを振り向いた。
そこには猫がいた。




