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春告げ祭の花嫁を決めるくじを私は引かない  作者: あずきまんま


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誰の土地なのか

日没まで、まだ二時間あった。リディアは掲示板に貼られた布告を読み、婚姻承諾の印を見つめた。そこに押されているのは村の祭礼印であって、本人の署名ではない。そんなものを婚姻の証拠にできるはずがない。けれど領主家が成立したと言い張れば、役場の書記も村の神官も逆らえないかもしれない。


「婚姻は、二人が誓うものよね」


リディアが尋ねると、ノエルはうなずいた。


「少なくとも、僕はそう思っている」


「私も。あの人は私に一度も結婚してほしいと頼んでいない。命令しただけ」


書記が布告の端をつまみ、青ざめた顔で言った。


「これは役場の正式な婚姻記録ではありません。祭礼委員会が出した告示です。婚姻簿に登録されていなければ、成立はしないはずです」


「それなら、登録される前に止める」


リディアは書記に案内を頼んだ。役場の裏口には、地下の書類棚へ続く狭い階段がある。普段は村の会計記録を保管するために使われ、鍵は書記と会長が一本ずつ持っている。だが書記が取り出した鍵は、途中までしか回らなかった。新しい錠前に替えられていたのだ。


「誰が替えたの」


「マルタ委員長です。今朝、管理を厳しくすると」


ノエルは錠前を調べた。鉄の輪には新しい工具の傷があり、扉の板には無理に打ち込んだ釘が突き出している。


「壊せる。でも、勝手に開ければ侵入だと言われる」


「私たちに必要なのは、開ける権限のある人ね」


リディアは、記録を確かめて戻ってきた商人組合の会長を振り返った。会長は頷き、懐から古い鍵を取り出して見せた。錠前を替えられても、共同管理帳を守る権限まで消えたわけではない。


「役場の財産に勝手に手を加えた者がいる。私は組合の会長として、立ち会う」


会長が書記へ宣言し、扉の封鎖を記録させた。ノエルは釘を抜き、錠前を支える金具を外した。扉を壊さずに開けるには、少し時間が掛かった。リディアは階段の入口で人々に状況を説明し、誰が何をしたかを見ていてほしいと頼んだ。パン屋の主人と粉屋の女将が前に出た。


ようやく扉が開いたとき、地下から乾いた紙の匂いが上がってきた。棚には古い土地台帳が積まれている。書記は壁際のランプに火をつけ、管理帳の棚を指した。


「果樹園の記録は奥です」


リディアは背表紙を一冊ずつ確かめた。共同管理帳の第一巻はある。第二巻もある。だが、現行の第三巻だけが見当たらない。棚の埃には四角い跡が残り、つい先ほどまで本が置かれていたことを示していた。


「持ち出されたんだわ」


書記が息を呑んだ。


「鍵を替えたのは、そのためかもしれません」


ノエルは棚の横に落ちていた薄い布を拾った。深緑の織物で、祭礼委員会の腕章と同じ色だった。


「マルタ夫人が来たのか」


「これだけでは分からない。でも、帳簿がないのは確か」


リディアは第一巻を開いた。祖父の代の記録には、村の果樹園は十二の家が共同で買い取った土地だと書かれている。各家の代表が同意しなければ売却できず、相続人が変わっても管理権は家ごとに引き継がれる。第三巻には現在の代表者と持ち分が記録されているはずだった。


「第一巻があれば、全部は奪えない」


リディアは言った。


「でも、今の代表者が誰なのか分からないと、契約の偽造を証明しきれない」


ノエルは彼女の隣に膝をつき、古い紙を傷つけないように支えた。


「君は十二の家を知ってる?」


「全部は知らない。母なら分かるかも」


「じゃあ、聞こう。人の記憶まで地下に閉じ込めることはできない」


リディアは彼の言葉に励まされた。帳簿を奪われたからといって、何もかも失ったわけではない。十二の家の人々は生きている。土地を守ってきた人が、ここにいる。


階段を上がると、母が待っていた。リディアは第一巻を見せ、現行の代表者を尋ねた。母は少し考え、家の名前を挙げ始めた。パン屋、粉屋、桶職人、養蜂家、果樹園の見回り役。十二の家のうち、十の家はすぐに分かった。残り二つは村を離れた家だったが、持ち分を引き継いだ親族が近くにいるという。


「みんなを呼んで」


リディアは頼んだ。


「この土地を誰か一人の結婚で売れるものにしたくない」


母はうなずき、人々を集めに走った。ノエルは橋の作業仲間を呼び、果樹園へ通じる道を塞がれないように頼んだ。リディアは書記と会長を伴い、役場の表玄関へ回った。そこにはユリウスとマルタ夫人が待っていた。


「よくも勝手に地下へ入ったな」


ユリウスが怒鳴った。リディアは足を止め、会長に視線を向けた。会長が一歩前へ出る。


「共同管理帳の保管状況を、私の立ち会いで確認した。現行の第三巻が消えている。鍵を替えたのは誰だ」


夫人は扇子を開き、平然と答えた。


「大切な書類ですから、私が安全な場所へ移しました」


「どこへ」


「委員会の管理室です」


「今すぐ返しなさい」


夫人は会長を見下ろした。


「あなたには関係ありませんわ。祭りの運営は委員会の権限です」


「果樹園の土地管理は委員会の仕事ではない」


会長は低く言った。ユリウスは苛立ち、夫人の腕を引いた。


「もういい。婚姻が成立すれば、全部こちらのものだ。書類など後で整えればいい」


その言葉に、リディアは確信した。彼らは最初から正当な手続きを踏む気がない。自分を結婚させれば、村人が諦めると思っているのだ。


「私は結婚しません」


「お前の意思など必要ない!」


ユリウスはリディアへ詰め寄った。ノエルが間に入ろうとしたが、リディアは手で制した。


「必要です。私の人生ですから」


「私に逆らえば、お前の母親は店を失う。村の者も果樹園を失う。分かっているのか」


「分かっています。だから、あなたの妻になりません」


ユリウスは一瞬言葉を失った。リディアは続けた。


「私が署名すれば、あなたはそれを口実に果樹園を奪う。断れば店を潰す。どちらでもあなたが得をするように仕組んだんでしょう。でも、土地は私のものではありません。私一人が売れるものじゃない」


「黙れ!」


ユリウスは彼女の肩をつかんだ。ノエルがその腕を払い、リディアを引き寄せた。役人たちが一斉に動いたが、会長が大声を上げる。


「ここには証人がいる。誰が最初に手を出したか、全員が見たぞ!」


ユリウスは舌打ちした。夫人は取り繕うように笑ったが、誰も笑い返さなかった。


リディアはノエルの胸元に触れ、呼吸を整えた。彼は彼女の背に手を回したまま、耳元で言った。


「怖かったら、離れていい」


「怖い。でも、離れたくない」


「なら、ここにいる。君が言い終わるまで」


リディアは彼の上着を一度だけ握り、ユリウスに向き直った。


「第三巻を返してください。今ここで」


「返す義務はない」


ユリウスは夫人に合図した。夫人は役場の管理室へ向かい、すぐに分厚い帳簿を持って戻った。リディアはほっとしたが、夫人の表情を見て警戒した。彼女は勝ち誇っている。


「これで満足でしょう。現行の代表者は全員、移転に同意しています」


帳簿の最後のページには、十二の署名が並んでいた。リディアは名前を見て、眉を寄せた。パン屋の主人の署名は、普段のものより整いすぎている。粉屋の欄の名前は、女将のものではなかった。


「これ、本当に本人が書いたんですか」


「当然ですわ」


夫人は扇子を閉じた。


「あなたがどれほど騒いでも、契約は有効なの」


リディアは署名の一つを指さした。


「この欄の人は、今の代表者ではありません」


粉屋の女将が帳簿を覗き込み、声を上げた。


「それ、私の母さんの名前だよ。母さんは五年前に亡くなってる!」


夫人の顔色が変わった。ユリウスは帳簿を取り上げようとしたが、会長が先に押さえた。


「持ち出しは禁止だ。これは村の財産だ」


リディアは別の署名を示した。


「ここも違います。桶職人の家は、二年前に娘さんが継いだはず」


人々が次々に帳簿へ近づき、名前を確かめた。亡くなった人、村を離れた人、家を継いでいない人。十二のうち六つの署名が、現在の代表者と一致していなかった。残りも、本人に確かめなければ分からない。


夫人は声を震わせながら叫んだ。


「古い名簿を使っただけよ! 同意そのものは取っているわ!」


「誰からですか」


リディアが問い返した。夫人は答えない。ユリウスが苛立って帳簿を奪おうとしたとき、パン屋の主人が前へ出た。


「俺は一度も売ると言ってない」


「うちもだ」


粉屋の女将が続いた。養蜂家の老人も首を振った。人々が自分の名前を口にし始めると、夫人は扇子を握りしめたまま後ずさった。


リディアは会長へ向き直った。


「この帳簿を、正式に調べてください。私たちの前で」


「今からだ」


会長は書記に机を運ばせ、帳簿を広場へ持ち出した。日没が近づいていたが、まだ間に合う。村人の前で十二の家を一つずつ確認すれば、偽造の契約を止められる。


だが、ユリウスは最後の手を残していた。彼は役人に耳打ちし、広場の鐘楼を指さした。役人が走り去るのを見て、リディアは嫌な予感がした。


「何をさせたんですか」


ユリウスは笑った。


「日没の鐘が鳴れば婚姻は成立する。帳簿を何冊並べても、お前は私の妻だ」


ノエルが鐘楼を見上げた。塔の上では、いつもより早く鐘を鳴らす支度が始まっていた。

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