私たちが選ぶ春
鐘楼へ走ろうとしたリディアを、ノエルが止めた。
「待って。鐘を止めるだけでは、あの男は別の理由をつける」
「でも、鳴らされたら婚姻が成立すると言っているわ」
「成立すると言っているだけだ。書記は違うと言った。確かめよう」
リディアは足を止めた。焦って鐘楼へ駆け込み、役人ともみ合いになれば、ユリウスはまた彼女を乱暴者に仕立てるだろう。ここには書記も、商人組合の会長も、村人たちもいる。まず婚姻の仕組みを明らかにしなければならない。
「書記さん。婚姻簿を見せてください」
書記は頷き、役場から分厚い記録簿を運んできた。婚姻が成立するためには、当事者二人の意思確認と署名、立会人二人の署名が必要だと、最初のページに書かれている。鐘の音については何もない。リディアはその一文を読み上げた。
「祭りの鐘は、婚姻の条件ではありません」
広場に集まった人々が顔を見合わせた。ユリウスは鼻で笑う。
「古い規則だ。祭礼委員会が特別な取り決めを作った」
「誰が、いつ承認したんですか」
「私の父だ」
「では、その記録を見せてください」
ユリウスは口を閉じた。リディアは書記へ向き直り、祭礼委員会に婚姻制度を変更する権限があるか尋ねた。書記は首を横に振る。
「ありません。祭りの進行を決めるだけです」
リディアは人々に聞こえるように、もう一度言った。
「私はユリウス様との婚姻に同意していません。署名もしていません。祭りの鐘を鳴らしても、私の意思は変わりません」
ユリウスは怒りに顔を歪めた。
「私を侮辱する気か!」
「あなたのことではありません。私のことです」
リディアは答えた。ノエルが横で静かに頷く。彼は今にも飛び出しそうなほど緊張しているが、彼女の言葉を奪わなかった。リディアはそれが嬉しかった。自分が話すべきことを、自分で話せる。
会長が広場の机を叩いた。
「婚姻の件は明白だ。次は果樹園だ。十二の家の代表者を、一人ずつ確認する」
パン屋の主人が最初に進み出た。彼は帳簿の署名を指さし、自分の字ではないと証言した。粉屋の女将は亡くなった母の名前が使われていることを説明した。養蜂家の老人は、十年前に亡くなった兄の署名を見つけ、怒りで声を震わせた。
「兄貴はこの果樹園を守るために、冬も見回りをしていた。死んだ人間の名前を使って土地を売るなんて、よくそんなことができるな」
リディアは老人の背に手を添えた。彼は涙を拭わず、ユリウスを見据えた。
「俺たちは売らない。誰にも渡さない」
残る家の代表者も次々に名乗り出た。村を離れた二家のうち一つは、隣村に住む娘が駆けつけた。もう一つは、会長が相続の記録を確認し、本人が来るまで売却の同意を保留すると明言した。現行の代表者のうち、誰一人として移転に同意していない。帳簿にある十二の署名は、どれも本人の同意を示すものではなかった。
「この契約は成立しない」
会長が宣言した。
「共同管理の規約に反する。村の果樹園を領主家へ移すことは認められない」
夫人が机を叩いた。
「あなた一人の判断で決められることではないわ!」
「私一人ではない。所有者たちの意思だ」
会長は帳簿を掲げた。リディアは夫人へ向き直った。
「あなたは、この署名が古いものだと知っていましたね」
「知らないわ。書記が間違えたのよ」
書記が息を呑んだ。彼は一度唇を噛み、ようやく前へ出た。
「私は署名欄を作っていません。委員長が、古い名簿を写して作れと命じました。私は断りましたが、別の役人が清書しました」
「嘘よ!」
夫人が叫んだ。書記は震える手で一枚の紙を出した。祭礼委員会からの指示書だった。そこには「現行代表者の確認は不要。前回の名簿を転記すること」と書かれ、夫人の印が押されていた。
リディアはその紙を会長に渡した。夫人は取り返そうとしたが、パン屋の主人と粉屋の女将が間に立った。
「これ以上、私たちの名前を勝手に使わないで」
粉屋の女将は強く言った。夫人は言い返せず、扇子を折るほど握りしめた。
ユリウスが突然、帳簿の端をつかんだ。
「こんなもの、燃やせば済む!」
彼は机のランプへ紙を近づけようとした。リディアは反射的に帳簿を引き寄せ、火から離した。熱い油が机にこぼれ、ノエルが素早く上着を脱いでランプを覆う。火はすぐに消えたが、彼の上着の裾が焦げた。
「ノエル!」
「大丈夫。火は消えた」
彼は上着を床へ置き、靴で押さえた。リディアは彼の腕を確かめた。火傷はない。だがユリウスはまだ暴れようとしている。会長が役人に命じ、彼を机から引き離させた。
「記録を焼こうとしたことも、全員が見た」
会長の声は低かった。
「領主の息子であっても、村の共同財産を勝手に処分する権利はない」
ユリウスは役人に向かって怒鳴った。
「私を離せ! お前たちの給金を払っているのは誰だ!」
役人たちは顔を見合わせた。一人が手を離しかけたが、書記が叫んだ。
「給金は村の税から支払われています! あなた個人のお金ではありません!」
広場にどよめきが起きた。ユリウスは初めて、周囲の人々が自分に従わないことに気づいたようだった。彼は父の名前を出し、処罰すると脅したが、会長は怯まなかった。
「領主様には私から報告する。祭礼委員会の権限で発行した命令は、ここで無効とする。商人組合の許可に干渉することも認めない」
夫人が息を吸った。
「私の委員長職はどうなるの」
「あなたが不正な名簿を使ったことは、書記の指示書と所有者の証言で確認した。祭礼委員会の規約では、委員長の不正が認められた場合、委員会の過半数の決議で解任できる」
委員会の構成員は七人だった。会長はそのうちの五人を広場へ呼んだ。五人とも、花嫁役の抽選に婚姻の条件が付け足されたことを知らなかったと証言した。マルタ夫人は一人ずつに睨みを利かせたが、誰も視線を逸らさなかった。
「解任に賛成する者は」
五人全員が手を上げた。会長が書記に記録させ、夫人から委員長の印章を受け取る。夫人は印章を離そうとせず、しばらく机の上で引き合いになった。最後には書記が印章の箱を差し出し、夫人は乱暴に放り込んだ。
「こんな田舎の祭り、好きにすればいいわ!」
「あなたが好きにできる祭りではなかったんです」
リディアは言った。夫人は返事をせず、広場から立ち去ろうとした。しかし、店の封印を貼った書記が彼女を呼び止めた。
「営業停止の通達も、撤回の署名が必要です」
「勝手にすれば!」
「あなたが発行したものです。撤回の責任があります」
夫人は顔を赤くしながら通達書に署名した。書記がリディアに紙を渡す。店の営業停止は取り消された。母は受け取った書類をしばらく見つめ、ようやく息を吐いた。
「帰って、樽を確かめよう」
リディアは頷いた。母の店が戻る。それだけで、肩に乗っていた重いものが少し軽くなった。
だが、ユリウスはまだ諦めていなかった。
「父が知れば、お前たちの家など潰せる」
彼はリディアを指さした。
「果樹園を売らなかったことを、後悔させてやる」
「私たちは売るつもりがありませんでした」
リディアは答えた。
「あなたが勝手に欲しがっただけです」
ユリウスは拳を振り上げた。ノエルがリディアの前に立つ。けれど、今度はノエルが止めるより先に、周囲の村人が動いた。パン屋の主人、養蜂家の老人、粉屋の女将。皆が二人の間に入り、ユリウスへ帰るように告げた。
「俺たちの土地だ」
「娘たちを脅すな」
「橋を壊しかけた責任も取ってもらうぞ」
ユリウスは一人ずつ睨んだが、押し返すことはできなかった。彼は兵を連れて馬車へ戻った。扉が閉まる直前、リディアへ憎しみのこもった視線を向けた。しかし馬車が動き出すと、広場の人々は誰も道を空けて見送ろうとはしなかった。馬車は遠回りをして村を出ていった。
鐘楼では、鐘を鳴らす準備をしていた役人が降りてきた。書記が婚姻の布告を剥がし、正式な記録に登録されていないことを広場で再確認した。リディアは紙が折り畳まれるのを見届けた。あれほど恐ろしかった日没の鐘が、今はただの時刻を知らせる鐘に戻った。
「リディア」
ノエルが呼んだ。彼は焦げた上着を腕に掛け、困った顔をしていた。
「これ、直せるかな」
「母に頼めば、きっと」
「君が直してくれるなら、もっと嬉しい」
「私、釘を全部曲げるような人間よ」
「上着には釘を打たないだろう」
リディアは笑った。ノエルも笑う。緊張がほどけると、彼がさっき火の前へ飛び込んだことを思い出し、また怖くなった。
「二度と、あんなことしないで」
「帳簿を守ろうとした君に言われたくないな」
「私は、あなたが傷つくのが嫌なの」
「僕も同じだよ」
彼は少し屈み、リディアと目の高さを合わせた。
「でも、君の代わりに決めるのは違うと思う。君が守りたいものを、僕も守りたい。だから危ないときは、一緒に考えよう」
「約束できる?」
「できる。僕が先に飛び出したら、止めてくれ」
「私が飛び出したら?」
「もちろん止める。さっきみたいに」
リディアは彼の手を取った。橋の上で交わすはずだった言葉は、もう店の前で伝えてある。それでも今、もう一度言いたかった。
「ノエル、私と結婚してくれる?」
彼は驚いたように瞬き、やがて笑った。
「僕から言うつもりだった」
「先に言ったもの勝ちね」
「じゃあ、もう一回言わせて。リディア、僕と結婚してください」
「はい。喜んで」
ノエルは彼女を抱き寄せた。リディアは彼の胸に顔を寄せ、焦げた布と石灰の匂いを感じた。誰かが拍手をした。母だった。続いてパン屋の主人が手を叩き、広場の人々が笑いながら祝福した。リディアは恥ずかしくなったが、離れたくはなかった。
「今度は本当に、私が選んだのよ」
「知ってる。僕も選んだ」
ノエルは彼女の額に口づけた。リディアは彼の頬に手を添え、今度は自分から唇を重ねた。母がまた大きな咳払いをしたが、二人は少しだけ笑い、離れなかった。
春告げ祭は、予定より遅れて始まった。花嫁役の抽選は中止され、代わりに村の子どもたちが果樹園の花を一枝ずつ運んだ。祭りの鐘を鳴らす役は、毎年交代で引き受けることになった。リディアは鐘楼へ続く階段を見上げたが、登らなかった。今日は店を開け直し、待っている客へ酒を出したかった。
母が封印の剥がれた扉を開け、樽を確かめた。幸い、どれも無事だった。リディアは棚の瓶を拭き、ノエルに一杯注いだ。彼は店の端に置かれた椅子に腰を下ろし、酸っぱい果実酒を飲んだ。
「やっぱり、ここの酒が一番好きだ」
「毎回そう言うわね」
「毎回本当だから」
リディアは彼の隣に座った。店の外では祭りの音楽が聞こえる。母は客を迎える準備をしながら、二人の前に焼き菓子を置いた。
「婚礼の相談は、店を閉めてからにしな。今日は忙しいよ」
「母さん、気が早いわ」
「早くないさ。あんたたち、何年も同じところをぐるぐる回ってたんだから」
ノエルが笑い、リディアは赤くなった。母は二人をからかうと、入口の客へ声を掛けに行った。
リディアは果実酒の杯を持ち上げた。
「橋の修理は、どうなるかしら」
「会長が工事の続行を認めた。費用の話は改めてするけど、村の人が手伝ってくれるそうだ」
「あなた一人に押しつけないでね」
「君も手伝う?」
「もちろん。釘を曲げない仕事なら」
「石を運ぶのはどう?」
「得意よ。あなたと初めて荷車を起こしたときみたいに」
ノエルは杯を置き、彼女の手を握った。
「覚えていたんだ」
「忘れるわけないでしょう」
「僕はあの日、君が笑ったのを見て、ずっと一緒に働けたらいいと思った」
「私は、あなたが手伝ってくれて嬉しかった。お礼に酒を出したら、酸っぱいのに全部飲んでくれた」
「本当においしかったから」
「嘘よ。最初は顔をしかめたもの」
「ばれてたか」
二人は笑った。店の窓から夕方の光が差し込み、棚の瓶が明るく見える。リディアはノエルの包帯をほどき、傷が乾いているのを確かめた。新しい布を巻き直すと、彼はその手をそっと包んだ。
「リディア。明日、君のお母さんに正式に挨拶してもいい?」
「もう何度も会ってるのに」
「結婚の話としては、まだだろう」
「母さん、きっと喜ぶわ」
「君は?」
「私は、もっと喜ぶ」
ノエルは彼女の指先に口づけた。リディアは彼の隣へ椅子を寄せた。外では子どもたちが祭りの歌を歌い始め、店には果実酒を買う客が増えてきた。母が忙しそうに呼ぶと、リディアは立ち上がった。
「手伝ってくるわ」
「僕も」
「お客さんなのに?」
「君と一緒に働きたいから」
ノエルは立ち上がり、空いた杯を片づけた。リディアは棚から新しい瓶を取り、母のいる帳場へ運ぶ。祭りの音楽は店の中まで届いていた。誰かに花嫁役を命じられることも、くじを引かされることもない。彼女は自分の足で働き、自分の好きな人と並んでいた。
ノエルが瓶の栓を開けるのに苦戦しているのを見て、リディアは笑った。
「貸して。私のほうが上手よ」
「石なら僕のほうが得意だ」
「じゃあ、これからも分担しましょう」
「一生?」
「一生」
リディアは栓を抜き、彼に渡した。ノエルは受け取った瓶を客の前へ運ぶ。母が二人を見て、何も言わずに笑った。
春の鐘が鳴った。リディアはその音を聞きながら、次の客の杯に酒を注いだ。
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