第5話 ドイツ少女と生物兵器に対しての周りの反応
「私は今日まで、感謝という感情の表し方を知らなかった。知識としては持っていた。しかし、感覚として理解していなかった。この四日間、医務室でリュミエールと話しながら、少しだけ理解した」
「どう理解した?」
「感謝とは、相手がいなければ今の自分がなかったという認識だ。お前がいなければ、私は今日この教室にはいない。そのことを、今の私は感覚として理解している!」
はっきりと確たる声で言うと同時に、アイゼンが頭を下げる。深く、ゆっくりと。
だが、ぎこちなかった。頭を下げることに慣れていない人間の動作である。
「ありがとう、不破ネメシス。本当に、ありがとう……!」
その声は大きく震えていた。感情の排除が完全に崩れている。
それがアイゼン・ヴァイスベルクという人間の、生まれて初めての本物の感謝だ。
午前九時十七分。HRが終わり、一時間目の授業が始まってから、二十七分が経過していた。
春の朝の光が教室の窓から差し込み続けている。
桜の花びらが風に舞う量が増えており、窓ガラスに薄い影を作っていた。
気温は外で十八度まで上がり始めており、教室内は二十一度に達している。
午前中の授業の時間帯特有の、眠気と緊張が混在した空気が教室に漂っていた。
しかし、今日の一年一組の教室は授業中にもかかわらず、空気の密度が通常と違う。
今は数学の授業が行われていた。担当教師が黒板に式を書いている。
しかし、教室の生徒の視線が、黒板に向いていない。
ネメシスの席に向かう視線が、今日は授業中も続いている。
今朝の出来事が教室内の、全員の記憶に新しかった。
アイゼンのキス。惚れたという宣言。冬華から告げられた死んでいた可能性。
それらが全部、今朝の八時四十九分から、八時五十五分の間に起きていた。
如月がノートを取りながら時々、ネメシスの方向を見ている。
見るたびに、視線を戻した。しかし、次の数分後にまた見た。
それが今日の授業が始まってから、五回繰り返されている。
「如月くん、また見てる」
彼の隣に座る生徒が小声で言った。
「見ていない」
「五回目だよ?」
「数えるな!」
隣の生徒からの言葉に、如月が口元を歪めると、そのままノートに視線を戻した。
「ねぇ、今朝のアイゼンさんの話、聞いた? 死んでいた可能性があったって」
「聞いた! 神宮寺先生が言ってたよね! 医療記録から逆算した結果がどうのこうのって!」
「不破が入っていかなかったら、今日アイゼンさんはここにいなかった」
「それを知った上で、アイゼンさんは今日の朝ああいう形で礼を伝えた」
「キスと惚れたという宣言か?」
「ドイツ式の礼だって言っていたけど、惚れたというのは礼じゃないよな」
「そうだな。惚れたは別物だ」
「不破……アイツ本当に何者なんだ? 予科生で、制服のまま試合に出て、術式干渉を使って、暴走魔力に飛び込んで、アイゼンさんに惚れられて……」
「しかも、先週のトーナメントでは神代兄妹に一度倒されたのに、自己再生して立ち上がった」
「あれを見た時さ……俺は正直怖かった。だけど今日の朝を見て、また別の怖さがある……」
「どんな怖さ?」
「アイツが今後どうなるのかが分からないという怖さだ。予測できない人間が隣にいる感覚だ」
「でも一組にいる限り、隣にいるよ?」
「……そうだな」
予科生の区画では、別の会話が続いている。一方で正科生の空気が、予科生の区画と違った。
今日の朝からの出来事を受けて、正科生の複数の生徒の間で、感情の色が変化している。
トーナメントで正科生が次々と敗れたことへの悔しさが、今日の朝の出来事でさらに複雑になっていた。アイゼンが予科生の不破に惚れる。死んでいた可能性のある状況から、予科生の不破に助けられた。
「ちっ、納得できない。別に不破が助けたこと自体は認める。しかし、正科生が何人もいた中で、なぜ予科生の不破だけが入っていけた。正科生の誰かが入るべきだったんじゃないか?」
何処か苛立ちの雰囲気を滲ませて、正科生の男子が小声で放つ。
「でも、誰も入らなかった……」
「いや、違うな。正しくは入れなかった、だ。暴走魔力の性質が特殊すぎて、通常の術式では対処できなかった」
「つまり対処できたのが、術式体系外の基盤を持つ、不破だけだったということだ」
「それは分かっている。分かっているが、納得できない部分がある……」
「どの部分が?」
「正科生として、予科生に助けられた場面を作られた部分だ。学校の序列として、それが面白くない」
「それは感情論だな」
「感情論で何が悪い。感情が動いているから言っている」
複雑な感情が入り乱れる会話を、一部の正科生たちは、それぞれが口にしていた。
そして授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
担当教師が教室を出た。十分間の休み時間が始まる。教室が一斉に動き始めた。
まず恒一が、教室の前方の席から立ち上がる。窓際に移動した。
窓の外の桜を見るような姿勢で立つが、視線が窓ではない。
神経回路の走査範囲ではなかったが、ネメシスの神経回路が、恒一の因果演算の波長を感知した。
今日の朝から、その波長が彼に向く時間が増えている。
授業中も、間欠的に向いていた。
「注視が続いているな」
小声でネメシスが吐き捨てる。
「誰が?」
彼の席の隣に立つと、ミサキが静かに尋ねた。
「恒一だ。今日の朝から因果演算の波長が、俺に向いている時間が増えている」
「トーナメントの後からもそうだったけど、今日は更に増えた?」
「そうだ。今朝の出来事を受けて、演算の対象として俺を扱う頻度が上がっている」
「何を演算しているの?」
「分からない。波長から内容は読めない。しかし、演算の密度が上がっているということは、変数として扱う優先度が上がっているということだ」
「……神代家として、不破ネメシスという存在への対処を、本格的に検討し始めているということかもしれない」
少し間を置いてから、ミサキが腕を組みながら返す。
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