第2話 お前に惚れてしまった!
「……ありがとう」
その声には、温かな感情が溢れている。
四日前まで感情を排除していた人間が、今は感情を込めて言葉を出していた。
「四日前、お前が私を助けてくれた。……これは、そ、その礼だ……! ドイツ式の礼の作法に従ったまでだ! 文句があるなら聞いてやる。……ふん、まあ、聞くだけだがな!」
それだけ早口で言うと、一瞬で耳の裏まで真っ赤に染め上げ、腕を組みながらアイゼンは顔を横に向けた。そして数秒後、教室が凍りつく。完全な静寂に包まれる。
如月が口を開けたまま固まっていた。後方の女子生徒が、両手で口を覆い隠す。
前方の男子生徒が、隣の席の男子生徒の腕を掴んでいたが、どちらも動かなかった。
ミサキが端末を閉じている。灰色の瞳が、アイゼンとネメシスを交互に見ていた。
表情が一切動いていない。しかし、イヤーカフが微弱な光を一瞬だけ放つ。
そしてアイゼンが、ネメシスの頬にキスをしてから、三十秒が経過していた。
教室の静寂が続いている。春の朝の光が窓から差し込み続けており、花びらが窓の外で舞い続けていた。しかし、教室の中の時間は、まだ止まったままである。
アイゼンが、ネメシスの席の前に立つ。満面の笑みのままだ。
ぎこちない笑みだが、消える気配がない。
銀混じりのブロンドが朝の光を受けており、灰青色の左目がネメシスを見ていた。
人工魔眼の青みがかった光が、静かに揺れている。ネメシスが、アイゼンを見上げたままだ。
漆黒に近い濃紫の瞳が、彼女を捉えている。表情に変化がなかった。
「ドイツの礼の作法、とはそういうものか……」
自身の唇に人差し指を、軽く触れさせるネメシス。その声は平坦だ。
「そうだ! 命を救われた相手への礼として……く、唇への接触が正式な作法なのだ!」
「知らなかった」
「し、知らなくて当然だ! 一般的には普及していないからな……!」
「それはドイツ全土の作法か?」
「……む。わ、私の育った地域の作法だ。一般化しすぎた説明だったかもしれない。そこは訂正する」
「訂正を受け取った」
小さく頷きながら、ネメシスは新たな知見を得る。そして教室の生徒が、二人の会話を聞いていた。
凍りついたままである。しかし会話が続くにつれて、凍りつきの質が変化してきた。
事態を処理しようとする動きが、少しずつ始まる。
「……それと、もう一つ言うことがある」
ネメシスから視線を外さずに、アイゼンが続けた。
「なんだ?」
僅かに彼は首を傾げる。教室の空気が、また変化した。
「四日前、お前は私の記憶を見たな。廊下で一人だったことを。壁に額をつけていたことを。右目で空が見えなくなったことを……全部見たはずだ」
「ああ、そうだな」
「見た上で、お前は届いたと言った」
「確かに言ったな」
肩を小さく竦めながら、ネメシスは返す。するとアイゼンが、一歩前に出た。
ネメシスとの距離が、さらに縮まる。
「私はドイツ連邦魔導技術庁の解析者として、感情を最小化するように育てられた。しかし、この四日間……医務室でずっと考えていた。リュミエールに話を聞いてもらいながら、お前のことばかり考えていた」
「何を考えた?」
「感情を排除するように育てられたこの私が、なぜお前のことを四日間も考え続けてしまったのか、だ」
おもむろに、小さく広げた両手を見ながら、アイゼンは話を続けた。
「……そして、ようやく答えが出た」
「どんな答えだ」
「……簡単なことだ。私は――――お前に惚れてしまったのだ!」
毅然と言い放つアイゼン。
だがその直後、まるで爆発でもしたかのように顔を真っ赤に染め上げ、顔を横に向けた。
三秒間の完全な沈黙が訪れる。それから教室が、爆発した。
「……え?」
「今……何て言った?」
「惚れた? 不破に?」
「アイゼンが不破に惚れたって言った?」
「ちょっと待って、状況の整理が追いつかない」
大勢の男女の声が、複雑に重なり合う。アイゼンは教室の反応を一瞥した。
灰青色の左目が、教室全体を一度だけ見る。そしてネメシスに戻った。
「宣言したからな。ちゃんと受け取れ」
「ああ、受け取った」
「返答は今しなくていい。私は答えを急がない。ただ、この宣言は撤回しないからな」
「分かった」
「ふん、以上だ」
それだけ言うとアイゼンが、自分の席に向けて歩き始めた。スカートの裾が揺れる。
満面の笑みのままだ。歩き方が入ってきた時と変わっていない。真っ直ぐで、迷いのない歩き方だ。
しかし教室の各所では、依然として様々な反応が起きている。
どうやらアイゼンのファンクラブが複数存在していたようだ。
正科生の男子の中に入学以来、アイゼンを遠目に見ていた生徒が四人いた。
ドイツの魔法師候補生として実力があり、装甲姿でも分かる体型の良さと、銀混じりのブロンドの外見に惹かれていた生徒たちである。その四人が、今日の状況を目撃していた。
「俺……今日から立ち直れる気がしない……」
震える声を喉から捻りだす生徒。その言葉には、本物の打撃を受けた音がある。
「アイゼンさんが不破に惚れたって言った……。キスして……惚れたって宣言した……。これは現実なのか……」
「……現実だよ」
「受け入れられない……。受け入れる準備ができていない……」
「俺たちにアイゼンさんを振り向かせる機会があったとしたら……今日それが完全に消えた……」
「……消えた。完全に消えた……」
意気消沈した状態の四人は、それぞれが違う方向へと顔を動かした。
それは精神的な打撃を受けた人間が向く方角である。
正科生の男子全体でも、不満の声が上がり始めた。そして如月が席から立ち上がる。
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