第1話 ドイツ少女のキッス
四月十九日、月曜日。午前八時四十一分。例のトーナメントから、既に四日が経過していた。
春の朝の光が教室の窓から差し込んでいる。
四月の下旬に近づくにつれて日の出が早くなっており、午前八時台でも光が十分な明度を持っていた。
外の気温は十六度で、教室内は十九度を保つ。
窓の外では桜が散り始めており、風が吹くたびに花びらが舞い上がった。
一年一組の教室は、朝のHRの直前である。
四日間、学校は表面上の平穏を保っていた。緘口令が効いている。SNSへの投稿が制限されていた。
しかし、教室内の会話は止まっていない。廊下で、食堂で、寮の共用スペースで、声を落としながら今日まで例のトーナメントでの出来事が語り続けられていた。
そしてネメシスが、窓際の席に座っている。朝の光が斜めに差し込み、漆黒に近い濃紫の瞳に当たっていた。制服のジャケットを着用しており、姿勢が通常のものである。
ミサキは彼の席の隣に立ち、軽やかに端末を操作していた。金色の髪が朝の光を受けて明るく光る。
灰色の瞳が端末を見ていた。左耳のイヤーカフが、朝の光を受けて静かに輝く。
教室の空気は、今日も微妙な緊張を含んでいた。
「ねえ、聞いた?」
教室の後方から声が上がる。
「アイゼンが今日戻ってくるって噂、本当らしいよ」
「マジで? あの暴走の四日後に?」
「再生院の桃華先輩が治療に入ったって話があって。それで回復が早かったって」
「再生院先輩が直接? なんで生徒会長が動いたの?」
「分からない。でも退院したのは本当らしい」
「ちゃんと制服で来るのかな。トーナメントの時は、ずっとあの装甲を着てたけど」
「さすがに授業中は装甲じゃないでしょ」
教室がざわついていた。ネメシスは、その会話を流し聞いている。神経回路が情報を処理した。
桃華が治療に介入したという情報は確認できていない。
しかし、再生院の術式が回復に使われたなら、四日間での復帰は可能。
「ねえねえ、今の聞いた?」
ネメシスの隣に立つミサキは、端末から目を上げずに言った。
「ああ、聞いた」
「どう思う?」
「来るなら来い、という気持ちだ」
「毎回同じ台詞だ」
「毎回同じ状況だ」
「……実を言うとね。アイゼンがどういう顔で来るか、私は少し気になっている」
少し間を置いてからミサキは呟く。
「どういう意味だ」
「四日前、あの子は崩れた。発狂して、泣いて、止まれって叫んだ。あんな状態になった後で、どういう顔で教室に来るか。それが気になる」
「……お前のそういうところ、俺は素直に怖いと思う。だがまあ……それは来た時に分かる」
少し考えた末に、ネメシスは肩を竦めて返す。
「うん、そうだね」
口角を僅かに上げて笑みを零すと、ミサキは自分の席へと戻った。
午前八時四十九分。HRの開始まで、あと六分だ。教室のドアが静かに開かれる。
最初に気づいたのは、ドアに近い席の生徒だ。
「……あっ」
短い声が出てゆく。その声のトーンに、教室全体が反応した。
自ずと全員の視線がドアの方向に集まる。
そして――――アイゼン・ヴァイスベルクが教室に入ってきた。
デバイスは装着していない。女子用の制服を寸分の狂いもなく着用していた。
白いブラウスと濃紺のスカートが、引き締められた体型に沿う。
装甲を纏っていた時には隠れていた体の曲線が、制服越しに明確だ。
細身でありながら均整の取れた体型が、白いブラウスの布地越しに鮮明である。
スカートの裾が膝丈で、歩くたびに揺れた。銀混じりのブロンドが、肩のラインで整えられている。
朝の光を受けて淡く輝いていた。
トーナメントの時は装甲の影響で隠れていた髪が、今日は完全に露出している。灰青色の左目が、前を向いていた。人工魔眼が前髪の下で静かに発光している。しかし、その発光の色がトーナメントの時と違った。赤黒い光ではなく、静かな青みがかった光である。顔色が、四日前より良かった。
そして表情に今まで、一度も見たことのない種類のものが混じる。
教室の生徒が、全員アイゼンを見ていた。誰も声を出さない。四日前の暴走を全員が知っていた。
緘口令の下で、口には出さなかったが、記憶から消えていない。
その人間が今、完璧な制服姿で、教室のドアから入ってきた。
「アイゼンって、こんな顔してたんだ……」
誰かが小声で呟く。
「装甲しか見てなかったから……」
「うーん……可愛いな。告白しちゃらワンチャンあるか?」
複雑な声が、教室の至る箇所から上がる。そしてアイゼンが、教室を静かに見渡した。一秒間、教室全体を見る。そして歩き始めた。入口から真っ直ぐ歩く。教室の中央を通り過ぎた。後方の席に向かう。
生徒全員が視線で、アイゼンの動線を追った。彼女の歩いた先に、誰がいるかを確認する。
「不破の席に向かっている……」
誰かが小声で呟く。
「えっ、なんで?報復?」
「分からない。でも迷っていない……」
数人の生徒の声が流れ聞こえる。一方でアイゼンは歩くたびにスカートの裾を揺らす。
装甲を纏っていた時の重さが、今日は完全にない。
しかし、歩き方が変わっていなかった。真っ直ぐで、迷いのない歩き方である。
アイゼンがネメシスの席の前で止まった。彼が静かに見上げる。
漆黒に近い濃紫の瞳が、アイゼンを捉えた。二人の視線が交わる。
彼女の灰青色の左目が、ネメシスを見ていた。人工魔眼が、青みがかった光で彼を照らす。
教室が完全に静止した。誰も動かなかった。誰も声を出さなかった。
やがてアイゼンが、静かに口を開く。何かを言おうとした。しかし言葉より先に、彼女の顔が変わる。
感情の排除が、完全に消えていた。満面の笑みである。だがそれは、ぎこちなかった。
笑い慣れていない顔の、練習が足りない笑み。
しかし、それが今のアイゼンにとって、精いっぱいの表情のようだ。
「……お前に、伝えることがある」
何処か落ち着かない様子でアイゼンは呟く。
「なんだ? それは今ここで言う必要がある事なのか?」
淡々と感情の宿らない声でネメシスは答えた。
「ああ、今でなくては駄目だ。だから、今伝える」
右手を小さく横に振り、アイゼンは一切の迷いを見せずに言い切る。
「それに、今からやることを後にする理由がない。私は先延ばしが苦手だ。やると決めたなら、今やる!」
それだけ言うと、突然アイゼンが前に屈んだ。ネメシスの席に向けて、体を傾けた。
銀混じりのブロンドが、前に垂れる。教室の生徒が、その動作を視界に映す。
何が起きようとしているかを理解する前に、アイゼンの唇がネメシスの唇に重なった。
一秒間。柔らかかった。温かかった。それだけだった。
次の瞬間、アイゼンが体を起こす。満面の笑みのままだった。
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