第26話 ドイツ少女を救う、生物兵器
「感情を排除した状態を維持しろ。感情は演算の精度を下げる。お前はドイツ連邦魔導技術庁の解析者として育成されている。感情は必要ない」
「はい」
「返事は短く。感情的な返答は不要だ」
「はい」
「よろしい、続けろ」
それだけ言うと、研究員は端末を操作してから、その場を去った。
そして命令を受けた子供は静かに机へと向かう。
術式解析を始めた。表情は一ミリも動かなかい。
感情という概念が存在せず、まるで機械人形のように、生気の無い顔を晒している。
そして唐突に、ネメシスが見ている場面が変化した。
そこは同じ施設の別の部屋のようである。今度は一人だった。
アイゼンが十歳か十一歳の姿になっている。その部屋には、姿見が置かれていた。
彼女が鏡の前に立っている。人工魔眼が、右目に装着されていた。
「私の右目は、今日から解析専用に改造された」
アイゼンが鏡に向かけて独り言を吐く。その声には感情が込められていない。ただの事実の確認だ。
「右目の視覚は失われた。代わりに、術式の構造を直接視認できる解析機能が付与されたのだ。魔法師としての解析精度が三倍になる。……これは、改善だ」
鏡の前で、自分の姿を視界に収めながらも、彼女は動かない。三十秒間、動かなかった。
「この右目では、もう空の色も見えない。っ……本当に、もう見えないのだな……」
右手で右目の部分を覆うと、アイゼンの声が変化する。感情の排除が、一瞬だけ崩れた。
だが、それだけである。次の瞬間、表情が戻った。感情が消える。そして彼女が部屋を出た。
再びネメシスの視界に映る場面が切り替わる。今度は別の子供がいた。女の子である。
年齢はアイゼンと同じくらいだ。茶色の髪が短く切られている。
裸体の状態で全身に電極が取り付けられていた。何かの実験のようである。
それをアイゼンが、隣の観察室から、ガラス越しに見ていた。
「この被験体は、対精神干渉耐性の実験体だ。アイゼン、今日の解析をしろ」
端末を操作しながら研究員が、高圧的な態度で命令を出す。
そしてアイゼンが、人工魔眼で観察した。
「被験体の神経系に、精神干渉を加えている。耐性値を計測中だ」
「数値を読め」
「耐性値、現在値の七十パーセント。限界に近づいているな」
「もう少し上げろ」
「……限界を超えるぞ」
「構わない。データが必要だ」
「……はい」
少しの間を空けると、命令に従う意思をアイゼンは見せるが、拳を静かに握り固めると、その手は小刻みに震えている。そして実験は続いていた。
ガラスの向こうでは、悲鳴を上げながら涙と涎を撒き散らしながら、女の子が苦しんでいる。
しかし、アイゼンは機械のように、ただ只管に淡々と数値を口にした。
感情を排除した声で、数値を読み続ける。
しかし人工魔眼ではない、灰青色の左目が、ガラスの向こうを見ていた。その目だけが、動いている。
そして数分が経過して、実験が終わりを迎えた後、アイゼンが一人で廊下に出た。
そこは白い廊下である。誰もいない。アイゼンが壁に手をついた。
「……すまない」
苦悶とした声が、彼女の口から漏れる。感情の排除が崩れた声だ。
「すまない……。止められなかった。私には止める権限がなかったのだ……っ。私はただ、数値を読むことしか……それしかできなかった!」
誰にも聞こえない廊下で、アイゼンが胸の内に溜め込んでいたものを、一気に吐き出すように叫ぶ。
「すまない……っ」
そう言うと彼女は、全身から力を抜いた状態で、壁に額をつけた。
そして再びネメシスの視界に映る場面が変わる。また変わった。また変わった。
同じ構造の記憶が続く。解析。実験。数値。感情の排除。その繰り返しである。
しかし繰り返しの中で、廊下で一人になる瞬間が挟まれた。
その瞬間だけ、アイゼンの表情が変わる。感情が出た。しかし次の瞬間には消える。
感情の排除が戻った。それが、アイゼンという人間の構造。
ネメシスは全てを見ていた。神経回路を通じて、彼女の無意識の記憶が、流れ込み続けている。
「これが……アイゼンが育てられた場所か」
独り言のように彼が吐き捨てた。本当に自分から声が出ているのか分からない。
記憶の中に立ち尽くしていた。誰も答えない。
「感情を最小化するように育てられた。しかし完全には消えなかった。廊下で一人になる瞬間だけ、感情が出た。その感情を、誰も受け取らなかった」
今まで見てきたアイゼンの出来事を、冷静に分析した結果のものをネメシスは呟く。
そして記憶の中では、再び彼女が廊下を歩いていた。白い廊下を、一人で歩いている。
「お前は一人だったのか。ずっと……」
ひとりぼっちのアイゼンを、視界に収めていたネメシスは、ついに抑えきれず声を掛けた。
すると記憶が大きく揺れた。彼女の無意識が、彼の言葉に反応する。
「一人だったのか、と聞いている」
アイゼンに自分の声が本当に届いているのかと、そういう疑問を思うことなくネメシスは話し掛け続けた。だが彼が話し掛ける度に揺れが大きくなる。記憶の廊下が、歪んだ。霧が薄まる。
現実の退場通路の感触が、ネメシスの手に戻ってきた。
アイゼンの首筋に触れていた右手に、神経系の反応が届く。
「おい、アイゼン。聞こえているか。まあ、意識がないとしても言うがな」
頬を軽く叩いて意識の有無を確認するネメシス。霧の中で、赤黒い光が揺れた。
「貴様の記憶を見た。廊下で一人で壁に額をつけていた貴様を見た。すまないと言っていた貴様を見た」
鋭い視線をアイゼンに向けながら、彼は落ち着いた声で話し掛ける。すると赤黒い光が弱まった。
「貴様は感情を持っていた。持ち続けていた。排除しようとしても、廊下で一人になる瞬間に出てきた。それが今日の試合で溢れた」
片手を力強く握り固めながらネメシスは、その言葉に段々と一種の熱を込めてゆく。
そして霧の密度が落ちた。
「今日お前が発狂したのは、設計の欠陥ではない。ずっと抑えていたものが、今日初めて溢れただけだ。廊下で一人で言っていたすまないという言葉を、今日初めて誰かに届けようとした。それは確かに届いた。俺に届いたぞ、アイゼン・ヴァイスベルク!」
握り固めていた手を解いてネメシスは、自身の心臓の部位に親指を強く押し当てる。
すると霧が更に薄くなり始めた。NMSウイルスの神経回路が、ワクチン術式を発動する。
アイゼンの神経系の内部に、術式が流れ込んだ。蓄積した暴走魔力が、内側から処理される。
一つ。また一つ。暴走魔力の塊が、ワクチン術式によって無力化された。霧が収縮する。
今度は止まらなかった。収縮が続く。霧が薄くなる。通路の照明が、白さを取り戻し始めた。
壁の黒変が、縁から回復する。やがて最後の霧が消えた。
そしてアイゼンが地面に崩れ落ちる。膝から崩れて、横向きに倒れた。
デバイスの装甲が、停止したまま静かである。人工魔眼の赤黒い発光が消えた。
灰青色の左目が、天井を向いている。焦点が、ゆっくりと戻った。
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