第25話 ドイツ少女の記憶
「再生が完了する前に動く」
「無理だよ……っ。損傷が完全に回復していない状態で霧の中に居続けるのは……!」
「回復しながら進む。再生と侵食の拮抗を維持しながら、アイゼンの神経系に到達する」
「それは……」
「問題ない。それを試みた時、拮抗はできていた。全エネルギーを集中させた一撃で吹き飛ばされたが、その前の六歩は維持できた。今度は全エネルギーの集中を防ぎながら進む」
「どうやって防ぐの……?」
「触手で霧の流れを分散させる。エネルギーが一点に集中する前に、複数方向に拡散させる」
「それって……また傷つくっていうことでしょ……っ?」
少し間を置いてから、リュミエールが震える声で呟く。
「まあ、そうとも言えるな」
「なぜ、そこまで……」
「さっきも言ったぞ。放置という選択肢を俺が選べないことが分かったと」
小さく溜息を吐き捨てながら、ネメシスは何処か面倒そうに答えた。
そして再生中の皮膚が、照明の下で光っている。
「言った、よ……でもさ……」
「それだけだ。理由はそれだけだ」
「ネメシスくん……」
リュミエールの蜂蜜色の瞳が大きく揺れた。
「仮にアイゼンが死んだ後に、貴様がどういう顔をするのかを想像した。それを見たくないという感覚が俺にはあった。それが選択に影響した」
「それは……っ」
静かに彼女が息を飲む。
「感情による判断かもしれない。俺にはまだ、感情と判断の分離が完全にできていない。しかし今この状況では、その未分離が正しい方向に働いている」
そう言いながらネメシスが、右足を一歩前に出した。
再生中の上半身は、依然として損傷しており、完全には回復していない。
しかし、それでもネメシスは確実に立ち足を進め始めた。そして背中からは、触手が展開される。
今度は六本ではなく、八本だ。
「霧の流れを分散させながら進む。アイゼンの神経系まで到達する。そこで接続する。それだけだ」
確固たる意思を声にしながらネメシスは、再び霧の中をしっかりとした足で突き進んでゆく。
霧の影響で肉体を損傷させながらも、即座に負傷箇所を再生させて前へと進む。
まるで一種の拷問のように、彼は只管に負傷と再生を繰り返す。
そしてアイゼンの暴走が始まってから、既に十分が経過していた。
退場通路の黒い霧が、再び濃度を増している。
施設のバリア拡張作業が続いていたが、まだ完了していない。
通路の壁は黒く変色したままで、照明が霧の縁で不規則に揺らいでいた。
観客席の混乱は続いており、出口付近で生徒が押し合う。
そんな中でも、ネメシスだけは只管に、霧の中を突き進んでいた。
八本の触手が、霧の流れを分散させながら、進路を確保している。
再生が進行中の上半身が、霧の魔力干渉を受けながらも、前進し続けていた。
損傷と再生が拮抗したまま、一歩ずつ進んでいる。
七歩目。赤黒い光が近づいた。それは人工魔眼の残光である。
「……見えた。アイゼンの位置を確認した」
独り言を吐き捨てるようにネメシスが呟く。霧の中で、黒い影の輪郭が浮かぶ。
アイゼンの形をした影が、地面に膝をついていた。立つ力が残されていない様子。
しかし、神経系からの魔力放出は続いていた。その影の前でネメシスは足を止める。
「おい、アイゼン! 聞こえているか!」
彼が声を掛けるが、それは霧に吸い込まれてゆく。そして影が動く事はなく、返答はなかった。
人工魔眼の赤黒い光が、焦点のない方向を照らしている。
「ちっ……意識がない、か。精神崩壊が進行して、意識が落ちている。神経系の暴走だけが自律的に続いている状態だ」
自身の顎下に手を当てながら、冷静に思考を巡らせて、ネメシスが判断した。
「意識がないなら、どうやって止めるの……?」
後方からリュミエールの声が届く。
「直接接続する。意識がなくても、神経系への接続は可能だ。NMSウイルスの神経回路が、アイゼンの神経系に直接接触して、ワクチン術式を内部から投与する」
「でも……意識がない状態で精神崩壊の内容が流れ込んでくるなら……」
「無意識の領域まで流れ込む。意識のある状態より、より深い部分にアクセスすることになる」
「それって……っ」
「やるしかない」
そう言いながら、ネメシスが影へと手を伸ばす。触手がアイゼンの肩を固定した。
彼の右手が、彼女の首筋に触れる。神経回路が、最大出力で接続を開始した。
刹那、ネメシスの視界が暗転する。
通路の霧が、一瞬で消えた。彼の視界が、別の場所に切り替わる。
そこは白い部屋だった。施設の退場通路ではない。どこかの実験施設だった。
天井が高く、壁が白い。照明が均一に点灯しており、影がなかった。
消毒液の匂いが空気に混じる。机が一列に並んでいた。その机の前に、子供が座っている。
十人以上の子供が、机に向かい何かを書いていた。
全員が同じ服を着ている。白い作業着だ。表情が動く事はなく、声すら出ていない。
ネメシスは部屋の端に立つ。自分の体が見えた。制服姿だ。しかし誰も、彼を見なかった。
「ここは……一体なんだ……?」
周囲を見渡しながらネメシスは呟くが、それは歯切れが悪いものである。
そして、その声は部屋に吸い込まれて消えた。
「これはアイゼンの記憶だ」
彼の疑問に、答えを与えるように、誰かの言葉が届く。
だが、それは声ではなかった。神経回路を通じて、アイゼンの無意識から届いた情報の一部。
そして一人の子供が、徐に立ち上がった。髪は銀混じりのブロンドである。
年齢は七歳か八歳ぐらいだ。灰青色の左目が、机の上の計算式を見ている。
右目には、小型の義眼が装着されていた。人工魔眼の初期型である。
「アイゼン、この術式解析を三十分で完了させろ。前回は四十二分かかった。今回は短縮しろ」
端末を片手に、中年男性の研究員が彼女へと近づくと、高圧的な態度で命令を出す。
「はい」
短く端的に答える子供の声には、まるで感情というものが存在せず空虚だ。
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