第16話 互いに全力
「どう分析しても……答えが出ない。貴方は一体どういう存在なの、不破くん……」
爪が皮膚に食い込む勢いで、両手を握り固めると、美弥が静かに問い掛ける。
「正直に言うと、俺にも分からない。しかし今日、少し分かった気がする」
彼女に視線を向けながら、ネメシスは口角を僅かに上げた。
「何が分かったと言うの……」
「NMSウイルスの神経回路が、俺が想定していたよりも広い範囲の干渉に対応できる。因果書換のような術式体系外の攻撃にも、学習によって対応できる」
「それは今日、初めて知ったことなの……?」
「そうだ。今日、恒一と戦わなければ、知らなかった。ゆえに、とても感謝している」
静かに目を閉じて天を仰ぐと、今日だけであらゆる収穫を得られたとして、ネメシスは心の内を歓喜で震わせる。そして彼の言葉を聞いて、美弥が口を閉じた。氷色の瞳が、ネメシスを見続けている。
恒一が、一歩前に出た。ネメシスとの距離が、五メートルになる。
暗いグレーの瞳が、彼を真っ直ぐに見ていた。因果演算が処理を続けている。
しかし今の恒一の目は、演算の目ではなかった。ただ演算を止めて、ただ見ている目。
「不破、お前は……」
それだけ短く言うと、恒一は口を閉ざした。次の言葉を選んでいる様子。
因果演算で最適な言葉を導き出すのではなく、自分の感情から言葉を探していた。
「俺の因果書換で存在の連続性を断絶された。それだけなら、今日の試合の結果として処理できた」
「しかし……しかし、お前は立った。俺の術式の内容を逆算して、自己修復して立った。それは俺の想定の外にある」
「……ふむ、そうか」
「因果演算で説明できないことが、今俺の目の前にある。それは初めて経験することだ。……お前は、まるで怪物だな」
両手を小さく広げ恒一は動揺の姿を晒すが、彼を象徴するような単語を口にすると、まるで相手を認めるかのように表情を少しだけ緩める。暗いグレーの瞳が、ネメシスの漆黒に近い濃紫の瞳を見ていた。
そして、いつの間にか審判員が、フィールドの外周に下がっている。
医療班もフィールドの入口まで下がり待機していた。しかし、フィールドの中に、まだ四人がいる。
恒一が一歩前に出た。
「……不破」
短く彼が呟く。その声には、今日の試合で初めて聞く、種類の感情が混じっていた。
「先ほどの攻撃を受けて、お前は一度倒れた。本来なら、そこで勝負は決していたはずだ」
「ああ、そうかもな」
「しかし……何故だろうな。俺は今、納得していない」
「どういう意味だ?」
恒一が数珠を右手で握りしめる。光を放っていた数珠が、一度消えた。
そして再び光る。今度は、試合中より高い密度で。
「お前は確かに俺の因果書換で倒れた。だが、そこから自力で立ち上がった。因果書換の痕跡を逆算して自己修復した」
「ああ、そうだ」
「つまり今のお前は、さっき俺の術式を受けた後のお前だ。俺の因果書換の構造を理解した後のお前だ。試合中のお前より、今のお前の方が俺の術式への対応能力が高い」
「……まあ、そういうことになるかもな」
少し間を置いてから、肩を竦めつつネメシスは返す。
「だから、このまま不完全な形で決着をつけることが、俺にはできない」
鋭い視線を晒しながら恒一は、右手を前に出して握り固める。
「幸いにも、ここには審判員がいる。しっかりと記録も残される公式の試合だ。……俺はお前と今、本当の決着をつけたいと、心の底から願っている」
「神代くん! 不破くんのダウンからの復帰は認められますが、これ以上の戦闘は危険です! 一度仕切り直しを――」
駆け足で二人の傍に近づくと審判員は、一時的に試合の中断を進言するが、その言葉は途中で遮られた。
「頼む、邪魔をしないでくれ」
僅かばかりの怒気を声に込めながら、恒一が審判員を睨む。
「これは俺たちの問題だ。ただ、二人で確認をしたい。許可を求めているのではなく、止めないでくれと言っている」
そう言い放つと静かな、しかし有無を言わせぬ彼の圧が、フィールド全体の空気を凍りつかせる。審判員が困惑した表情で、観客席の方向を見た。冬華が教師陣の専用席から立ち上がる。
「見守れ」
ただ、それだけ彼女は静かに言い放つ。それは短い言葉だった。しかし、権限と確信が込められている。審判員が一歩下がった。ネメシスがミサキを見た。静かに彼女が頷く。
「……行きなさい。私は止めない」
「ミサキ」
「……止めはしないけど、無茶は絶対にするな。流石に死なれたら困るからな」
「ふっ、任せておけ。俺は絶対に死なん」
「本当か? 一度、死にかけてたのに、よく言うな」
「……訂正しよう。今度は死なない。方法が分かったからな」
「……分かった。信じる」
少しの間を空けてから、ミサキは小さく頷いた。そしてネメシスの顔が恒一へと向く。
漆黒に近い濃紫の瞳が、暗いグレーの瞳を真っ直ぐに捉える。
「よし、いいだろう。神代恒一。貴様からの挑戦、受けて立つ」
不敵な笑みを浮かべるように口角を吊り上げると、ネメシスは右手を前に出して指を小さく動かし、軽い挑発行為を行う。
「……だが、条件がある」
「なんだ?」
「今日の試合で俺は、まだ本気を出していなかった。貴様の全力に対して、俺も全力を出す。それが条件だ」
「いいだろう、望むところだ」
「加えて、今から俺が使うものを見ても、驚くなよ」
「……何を使う気だ?」
少しの間を空けると恒一が、疑問を口にしながら目を細めた。
「まだ今日の戦いで、一度も使っていないものだ。触手も、術式干渉も、今日使った。しかし、それより深いところにあるものを、今日初めて使う」
「お……お兄様……」
恒一の隣で美弥が息を飲んだ。
「ああ、分かっている。安全な場所まで下がっていろ、美弥。今度こそ、俺一人で戦う」
右手を僅かに上げて彼女を下がらせるような仕草を見せるが、彼は強者との戦いに心を躍らせていることを隠せないようで口の端が上がる。
「で、ですが……!」
「お前は今日、十分やった。あとは俺に任せて、ゆっくり休んでいてくれ」
「っ……絶対に勝ってください! お兄様!」
下唇を噛み締めた後、それだけ美弥は言うと安全圏まで移動した。
そして改めて、フィールドの中央で、二人が向き合う。二十メートルの距離。
恒一の数珠が、最大の光を放っていた。
専用の戦闘服の表面に、因果演算の術式紋様が浮かび上がる。
今日の試合でも、一度も見せていなかった術式紋様だ。
一方でネメシスは、制服のボタンを外した。
ジャケットを脱いで、それをフィールドの地面に置く。
シャツ一枚の姿で、ネメシスが恒一を見た。
漆黒に近い濃紫の瞳が、静かに光を帯び始める。
NMSウイルスの神経回路が、全稼働に向けて起動した。皮膚の下で、何かが動き始める。
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