第5話 幼馴染という設定
「これより追加の任務説明をする」
ネメシスの体温を測り終え、データをタブレット端末に入力してから、彼女が口を開いた。
「まだ続きがあったのか?」
「ああ、当然だ。そして、これが本題だ」
「ふむ、ならば聞こう」
ネメシスは目を細める。
「今後、貴様は潜入の任務に就く。対象は都内に存在する第一国立魔法科高等学校。在籍する魔法師候補生の監視と、そこに潜伏している日本の脅威となりうる組織の特定が主な目的だ」
「第一国立魔法科高等学校……俺が、学生として」
短く彼は反復した。
「ああ、そうだ」
「……なるほど」
ネメシスは少しだけ視線を上げ、何かを処理するように間を置く。
「それで、俺の立場は何だ。新入生か?」
「そうなる。ただし、単独での潜入は認められていない」
「その理由は?」
「貴様は今日、初めて外の世界と接触する。社会的な振る舞いのデータが、まだ実地では蓄積されていない。単独行動でのリスクが高いと判断された」
「俺が失敗すると思っているのか?」
「失敗を心配しているのではない。貴様が社会的なルールを無視した最適解を取ることを、心配している」
ミサキは淡々と口にした。
ネメシスは一瞬、何も言わない。ただ、薄く笑うのみ。
「正確な懸念だ」
「だから私が同行する」
「監視官として、か」
「表向きは違う」
そこで彼女は、わずかに間を置いた。
業務的な平坦さを保ったまま、しかし次の言葉を選ぶように。
「私たちは、幼馴染という設定だ」
淡々とした口調で言い放つミサキだが、その表情は真面目そのものだ。
そして、沈黙が流れる。
端末の駆動音だけが、低く続いていた。
ネメシスは彼女を見る。標本を見る目でも、解析する目でもなく、純粋に意味を確認する目で。
「幼馴染……か」
「ああ、そうだ」
「俺と貴様が、か」
「まぁ、設定上の話だ」
「分かっている。具体的には、どの程度の関係を演じる必要がある?」
何処か重たい気持ちを抱えながら彼は腕を組んだ。
「組織からの指示書によれば、自然な親密さを維持すること、とある。具体的には、学内での行動を共にすること、会話の頻度を高めること、他の生徒から見て不自然でない距離感を保つこと」
タブレット端末を取り出し、ミサキは画面を操作する。
「不自然でない距離感、とは」
「幼馴染なら、肩が触れる程度の距離で歩いても誰も疑わない。名前を呼び捨てにすることも、自然だ」
「貴様はすでに俺をネメシスと呼んでいるな」
「任務を見越してのことだ」
ネメシスの顔を見ながら、当然のように彼女は、事務的な口調で言い切る。
そして、彼は少し考えるように間を置いた。
「俺は貴様を何と呼べばいい?」
「ミサキでいい。今と変わらない」
「では問題ない。だが、親密な関係というのは、どの程度まで含む」
何かを確認するように、ネメシスは話しを続ける。
ミサキは一瞬、答えを選ぶように止まった。
「必要に応じて、接触を厭わない程度だ」
「接触を厭わない」
「任務の遂行上、必要と判断される場面では、身体的な距離を取り除く必要がある。それを拒否しない、ということだ」
「了解した」
ネメシスは即答した。
感情的な抵抗も、了承の喜びも、どちらもない。
ただ条件を受け入れた、という事実だけがそこにある。
ミサキはそれを、しばらく観察した。
「少し、試してもいいか」
唐突に口を開き、彼女が呟く。
「何をだ?」
「距離感だ。学校で自然に見えるかどうか、今ここで確認する」
「ああ、構わない」
徐に両腕を広げてネメシスは、ミサキの要求を受け入れた。
彼女はタブレットを、ジャケットのポケットに収め、彼の正面から横に回る。
そして、ネメシスの左隣に、並ぶように立った。
肩と肩の距離が、十センチを切る。
ミサキの金色の髪が、蛍光灯の光の下で、くすんだ輝きを持っていた。
首元の銀のチェーンが、彼の視界の端にある。
シャツの生地が、胸元で主張している。
白い首筋が、間近にあった。
正面を向いたまま、ネメシスは動かない。
ミサキが彼を横から観察した。
レンズの奥で視線が、彼の横顔を捉えているのが分かる。
「……反応がない」
「何かあるべきか?」
「通常、人間はこの距離を取られると、何かしら反応する」
「不快感か、あるいは意識の変化か」
「ああ、そうだ」
「生憎と俺には、そういうのはない。不快でもなければ、意識も変わらない。ただ、貴様がそこにいる、という情報が追加されるだけだ」
静かにネメシスは言い切った。
ミサキは口を閉ざすと、しばらく何も言わない。
「……感情が、ないのか?」
「さあな。何かしらの理由で欠如しているのか、そもそも設計されていないのか。まあ、俺には分からん」
彼女の質問に対して、ネメシスは軽い雰囲気を晒しながら答えた。
「それに俺は今朝生まれた。故に比較するための過去がない。だから欠けているのかどうかも、判断できん。ただ――貴様が傍にいることを、不要だとも思っていない。それが感情なのかどうかは、俺には判断できないがな」
人差し指で首元を掻きながら彼は話を続ける。
ミサキは彼の横顔を、もう少しの間見ていた。
「……ふん、変わっているな」
ぽつりと彼女は独り言のように呟く。
業務報告でも分析でもない、珍しい温度の言葉だった。
「貴様も同じだ」
正面を向いたまま、ネメシスは薄く笑う。
「私が……?」
「ああ、そうだ。感情を業務に不要な情報として切り離している、と俺は判断した。持っているが、使わない。それは欠如とは違うが、通常とも違う。俺と方向は異なるが、結果は似ている」
ミサキを彼は横目で見た。
ネメシスの言葉に彼女は答えない。
しかし、サングラスのレンズの下で、口の端が動いた。
ほんのわずかに、上に。
笑みと呼ぶには小さすぎた。
しかし確かに、何かが動いたのである。
そしてネメシスとミサキは移動して、壁際に設置されたベンチに並んで座っていた。
肩の距離は、先ほどと変わらない。
ミサキがタブレット端末を取り出した。
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