第4話 舌の裏側に
「貴様が、ネメシスか?」
先に彼女が口を開く。確認の言葉だった。問いかけの形をしているが、答えを求めているのではない。
情報の照合をしているだけの声だ。ネメシスは、ゆっくりと頷く。
そして彼が覚醒から既に二十二分が経過していた。
研究員の何人かは記録作業のために隣室へ移動し、第七実験棟に残っているのは六名ほどになる。
アキラ博士は端末の前で、何かを確認し続けていた。
残った研究員たちは各自の作業に戻っているが、その背中がネメシスとミサキの方を気にしていることは、姿勢の微妙な傾きで分かる。
まだ二人は向き合ったままだった。距離は一メートル半。どちらも動いていない。
「これより、任務の説明を行う。一度しか言わん、しっかりと聞け」
ミサキが先に口を開いた。
「ああ、聞こう」
「私は貴様の監視役だ。行動の記録、戦闘時の支援、組織への報告、判断が必要な場面での介入。それが私の職務だ」
「介入、というのは?」
「貴様が組織の利益に反する行動を取ろうとした場合、それを止める権限を持っている」
「俺を止められると思っているのか?」
ネメシスは少しだけ目を細める。
「思っているかどうかは関係ない。権限として与えられている」
「ふん……なるほどな。つまり貴様は俺の番犬か。あるいは首輪か」
緩やかな動作で彼は腕を組み直した。
「どちらでも好きに解釈しろ」
「では番犬にしておこう。首輪は物だが、番犬は生き物だ」
口の端を吊り上げて、僅かに白い歯を晒しながら、ネメシスは呟く。
だがそれに対して、ミサキは何も言わなかった。
「で、貴様が組織の人間だという証明は? 俺に任務を説明する前に、それが先ではないか?」
途端に表情を無に戻すと彼は話を続ける。
するとミサキは、わずかに顎を引いた。それは否定ではない。肯定である。
「……そうだな」
彼女は短く言い、ネメシスの正面で立ち止まったまま、ゆっくりと口を開いた。文字通り、口を。
ミサキは舌を突き出した。それは圧倒的に自然な動作である。
媚びでも挑発でもなく、書類を提示するのと同じ温度の動作で、舌先を口の外へと出した。
そしてゆっくりと、舌を裏返す。
舌の裏側。薄い粘膜の上に、黒いインクで刻まれた紋章が見えた。
蛇の目を象った円形の中央に、細い十字が走り、その四隅にそれぞれ異なる意匠が刻まれている。
精緻な線で構成された、小さいが複雑な紋様だ。
舌の動きに合わせて微妙に歪むが、それでも意匠の輪郭は明確に読み取れる。
舌の粘膜に直接施されたそれは、皮膚への刺青とは異なる施術を必要とした。
痛みと、精度と、組織への帰属を同時に示す証明である。
ネメシスは前に一歩踏み出した。距離が縮まった。七十センチ。
彼はミサキの舌の紋章を、真正面から、間近で見た。
その瞳が、標本を見る目に変わる。感情が消え、計算が始まる目。
人を見る目ではなく、情報を読む目。濃紫の虹彩の底で、淡い光紋が一瞬だけ浮かんだ。
三秒の沈黙が生まれる。ネメシスの意識の中で、インストールされた組織データとの照合が走った。
紋章の形式。蛇ノ目型の円形外枠は、組織の正式登録紋章と一致する。
中央の十字は階級を示し、四隅の意匠は専門分野の組み合わせを示す。戦闘、情報、医療、対魔法。
すべての象徴が刻まれているということは、この少女は単一の専門職ではなく、複合任務に対応した要員として登録されているということだ。
舌への施術は組織の中でも、上位の帰属証明にのみ使用される。
偽造が最も困難な認証方法であり、任務中に書類を携帯できない環境下での、身分証明として設計されたものだ。
やがて照合が完了する。ネメシスが視線を上げた。
ミサキが舌を引っ込めた。やはり感情のない動作で。
「信用できたか?」
事務的な態度で彼女が尋ねる。
「ふん、必要ない」
ネメシスは即答した。
「必要ない、とはどういう意味だ?」
ミサキの眉が、わずかに動いた。
「そのままの意味だ。信用というのは、相手が自分の予測通りに動くという期待に過ぎない。俺には貴様の行動を予測するのに十分なデータがある。信用という感情的な補助は不要だ。それと貴様が組織の人間であることは確認した。その紋章が本物であることも確認した。貴様が監視官として俺の傍にいることも了解した。それで十分だ。信用するかどうかとは、別の話だ」
肩を竦めながらネメシスは返す。
ミサキはしばらく、何も言わなかった。
サングラスのレンズの奥で、視線の動きが止まったように見える。
「……そうか、面白い解釈だ」
人差し指でサングラスを押し上げながら彼女が口を開いた。
声の調子が、ほんのわずかだけ変わっている。
業務的な平坦さの中に、微量だが確かな何かが混じった。好奇心、と呼んでいいものが。
「ほう? 貴様に、そう言わせるとは思わなかったぞ」
何処か楽し気な雰囲気を見せながらネメシスは言い放つ。
「私が何かを言うと思っていたのか?」
「ふっ、そうではない。貴様が何も言わないと思っていた。監視官というのは感情を持たない役割だろう。俺の答えに反応するとは、予測の外だった」
軽く鼻で笑いながらも彼は、傲慢な態度を取るように腕を組み直す。
ミサキは答えなかった。しかしネメシスは、それを否定と受け取らない。
その時、彼女が動いた。一歩、前に出たのである。距離が、三十センチになった。
ネメシスは後退しない。腕を組んだまま、ミサキを見下ろす角度で立つ。
二人の間の空気が、密度を持ち始めた。彼女はネメシスの胸元に視線を向ける。
白衣の前が少し開いており、素肌が見えている。
「一つ、確認させろ」
「何をだ?」
「体温だ」
「……ほう」
彼が静かに、だが疑問の色を帯びた声を漏らす。
「確認する必要があるのか?」
「当然だ。覚醒直後の体温は記録に残す必要がある。体表温度だけでは不十分だ。直接確認する」
「随分と合理的な口実だ」
「口実ではない」
「分かっている。ただの冗談だ」
ネメシスは腕を組むのをやめた。ミサキは彼の正面で、手を上げる。
手袋はしていない。白い指先が、彼の首元に向けて伸びた。
触れた。鎖骨の少し下、胸骨の上部。薄い皮膚の下に、心臓の動きが伝わる場所。
ミサキの指先が、そこに静かに当てられた。
地下四十メートルの空間には、相変わらず循環する無菌空気と、蛍光灯の白い光だけが存在する。
覚醒から三十一分が経過していた。
第七実験棟に残る研究員は、いつの間にかさらに減っている。
アキラ博士と補佐の一名だけが端末の前に残り、他は隣室へ移動していた。
空間が広くなった分、ネメシスとミサキの周囲の静けさが、より際立つ。
二人はまだ、ほぼ同じ位置に立っている。
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