第3話 監視官
「き、起動――起動成功……! NEMESISプロジェクト、最終覚醒プロセス、完了!」
若い研究員の声が、かすれた。誰かが拍手しようとして、できない。
彼の瞳に見られると、拍手という行為が馬鹿馬鹿しいものに思えた。
ネメシスの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
眠っている時と同じ形の、同じ笑み。
しかし今は、その笑みの奥に何かがある。
品定めと、興味と、そして明確な軽蔑の混ざり合った何かが。
彼の視界に、情報が流れ込んでいた。
外からは分からない。ただ立っているように見える。
しかしネメシスの意識の中では、NMSウイルスによって構築された神経回路が全力で稼働し、インストールされたデータが次々と展開されていた。
魔法理論体系。術式の基礎構造から応用展開まで、現在確認されている全術式のデータ。
各術式の干渉ポイント、弱点、解体に必要な神経信号のパターン。
世界情勢データ。
現在の国家間の魔法師保有数、主要な魔法師組織の構成と戦力、過去の魔法師関与事案の記録。
そして自分のデータ。NEMESISとしての設計思想、使命、存在理由。
ネメシスはそれらを、三秒で処理した。
第七実験棟の内部は、覚醒直後の喧騒が落ち着き始めている。
複数の研究員が記録作業に移行し、モニターの前でデータを打ち込んでいた。
ネメシスはポットから数メートル離れた位置に立ったまま、白衣を一枚渡されていたが、それを羽織っただけで動こうとしない。腕を組み、目を細め、室内を静かに観察している。
その時、静かに扉が開かれた。廊下の白い光を背に、一人の少女が入室する。
第一印象は、迷い込んだのではない、ということだ。
この場所を知っていて、この場所に用があって、この場所に来るべくして来た人間の歩き方である。
一歩一歩が無駄なく、重心が低く、足音が驚くほど静かだ。
外見的な年齢は十六歳ほどで、身長は百七十三センチ。
室内の研究員の、ほとんどより頭一つ分高い。
白衣でも制服でもなく、黒のコンバットパンツに同色のシャツ、その上に丈の短いジャケットを着ていた。すべてが動きを妨げない設計で、装飾は皆無である。
肩から腰にかけてのラインは直線的だった。しかし胸元だけが、その直線を大きく裏切っている。
シャツの生地が、着用者の意図とは無関係に、自然の法則に従って主張していた。
それを本人は全く気にしていない様子で、まっすぐ視線は正面を向いたままである。
細身の腰から伸びる脚は長く、そのラインを黒のパンツが余すところなく示していた。
顔立ちは整っている。しかし、見とれる類の美しさではない。
骨格がシャープで、下顎から頬骨にかけての線が鋭く、無駄な肉が一切ない。
口角はほぼ動いておらず、薄い唇は一本の線のように引かれている。
髪は艶のない金色だった。肩甲骨の下まである長さだが、きっちりと整えられているわけでもなく、かといって乱れているわけでもない。
自然に流れ落ちているが、まとめ癖がついているのか、戦闘のような動作をしても邪魔にならないことが一目で分かる質感だった。
そして、サングラス。丸メガネ型の、ダークメタルフレーム。
細いフレームに、スモークの強いレンズが嵌まっており、目の動きが一切読めない。
フレームからは細いサングラスチェーンが垂れ、銀色の鎖が首元に沿って自然に落ちている。
無装飾で、揺れても音を立てない。
装飾としてつけているのではないことは明白で、それがかえって不思議な印象を作っていた。
首に沿うその銀の線が、知的な雰囲気と同時に、首輪か何かを連想させる冷たさを持っている。
肌は白く、血色が薄い。生活感がなく、疲労の痕跡も見当たらない。
しかし近くで見れば、消えかけた微細な傷跡が点在しているのが分かる。
それらはすべて、戦闘の名残だった。
彼女は室内に入ってから、一度も表情を動かさない。
感情が欠けているのではない。感情を、業務に不要な情報として切り離している顔だ。
「蛇ノ目監視官、お待ちしていました」
研究員の一人が、彼女に気づいて立ち上がった。
「すまない、諸事情により遅れた。詫びる」
蛇ノ目の声は低く、短いものである。
謝罪の言葉を言いながら、謝罪の感情が一切乗っていない。業務上の記録としての発言だ。
「いえ、覚醒が予定より十二分早かったもので。こちらの連絡が遅れました」
「……そうか。把握した」
それだけ言うと、彼女は室内を見回した。
モニター、研究員、培養ポット、アキラ博士、そしてネメシスを捉える。
サングラスのレンズ越しに、視線の向きだけが分かった。
「他の研究員の皆さんにも、改めてご紹介します。彼女は蛇ノ目ミサキ様。本プロジェクトにおけるNEMESIS担当監視官です」
アキラ博士が室内全体に向けて言い放つ。数人の研究員が小さく頭を下げた。
それに対してミサキは何も返さず、ただネメシスの方へと歩き始める。
一歩、二歩。足音が静かだった。硬質な床の上を歩いているはずなのに、靴底が触れる気配すら希薄である。それでいて足取りは確かで迷いがない。
彼女はポットの前まで来て止まった。彼との距離は二メートルを切っている。
二人が向き合った。ミサキの身長は百七十三センチ。
ネメシスはそれより数センチ高い。しかし圧があるのは、どちらとも言えなかった。
彼は腕を組んだまま、目を細めて目の前の彼女を見ている。
標本を見る目ではなく、珍しいものを見る目でもなく、ただ静かに観察していた。
ミサキはサングラスのレンズをネメシスに向けたまま、動かない。
どちらも先に口を開かなかった。研究員の誰かが、固唾を呑む音がする。十秒が経過した。
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