第2話 覚醒
「今夜の覚醒シーケンスについてですが、念のため確認したいことがあります」
「言いなさい」
「NEMESISの基本設計思想について、チームの新メンバー、全員に共有されていません。今夜に限って言えば、覚醒後の行動予測が――」
「必要ないわ。覚醒後の彼に、行動予測は意味をなさない。それがこのプロジェクトの出発点でしょう」
右手を大きく振りながらアキラ博士は遮った。
「しかし万が一、制御が――」
「制御する必要がないように設計した。それがNMSウイルスの役割よ」
はっきりと断言するように彼女は言い切る。
NMSウイルス。正式名称《Neuro-Magic Suppression Virus》、神経魔法抑制ウイルス。
現代社会において、魔法は実在する。
術式展開による物理法則の書き換え、精神干渉、空間操作――それらを可能にする”魔法師”と呼ばれる人間たちが存在し、軍事的・政治的な影響力を持つに至っている。
そして魔法師は、通常の兵器では対処が難しい。
NEMESISプロジェクトは、その問題への回答として立ち上げられた。
魔法を持たず、しかし魔法に対して絶対的な優位性を持つ存在の人工的な創造。
通常の人間に、NMSウイルスを遺伝子レベルで組み込むことで、魔法術式を神経レベルで認識・干渉・
解体する能力を持たせる。しかし実験は失敗し続けた。
通常の人間にNMSウイルスを接種すると、神経系が耐えられない。
接続率が六十を超えた時点で被験体は廃人化し、八十を超えると脳が溶ける。
九十を超えた者は、過去に一人もいなかった。
だから少年は、最初から培養ポットの中で作られる。
通常の受精卵から始まり、ウイルスとともに育てられた。
細胞の一つひとつが、NMSウイルスと共存するように調整されながら。十六年間、ずっと。
「神経接続率九十九パーセント到達は、人類史上初の記録です」
古参の研究員が静かに言った。その声には、感慨とも恐怖ともつかない響きがある。
「……ええ。だから彼は、NEMESISよ」
アキラ博士は大きく頷いた。端末のアラームが短く鳴る。
「神経接続率、九十九・〇達成。目標値クリア」
「NMSウイルス統合安定値、全パラメーター正常範囲内」
「培養ポット、排液シーケンス開始準備完了」
「最終覚醒プロセス、開始します」
オペレーターの声が、一段と張り詰めた。
研究員たちは端末から目を離さず、それぞれのモニターに映し出される数値を追い続けている。
誰も言葉を発していない。
スピーカーからオペレーターの読み上げだけが、無機質に空間を満たしていた。
「培養液残量、二十パーセント」
「バイタル、全項目安定」
「神経接続率、九十九・〇で固定中」
ポットの中で少年の体が、完全に液体から露出しつつあった。
濃紺の髪が重力に従って垂れ下がり、毛先から培養液が細く滴っている。
白い肌に無数の電極端子が貼り付いたまま、まだ直立に近い姿勢をネメシスは保っていた。
胸郭はわずかに動いているが、それは機械的な補助呼吸システムによるものである。
自発呼吸は、まだ始まっていない。
「液体残量、五パーセント」
古参の研究員が、手元のタブレットを握り直した。
アキラ博士は腕を組んだまま、ポットの正面で彼を見つめている。その表情は読めない。
研究者としての冷静さと、十六年間この少年を”育てた”という事実の間で、何かが拮抗しているように見えた。
「排液、完了」
研究員の言葉と共に、ポットの内部が完全に空になる。
ネメシスは今、ガラスと鋼鉄に囲まれた空間の中に、むき出しで立っていた。
最初に動いたのは、指先である。
右手の中指が、ほんのわずかに曲がった。
次いで薬指、人差し指。
まるでピアノの鍵盤を確認するように、順番に、ゆっくりと。
「指先に随意運動、確認」
オペレーターの声が、わずかに上ずった。
続いて首が動く。正面を向いていた頭部が、数ミリだけ右に傾いた。
まるで何かの音を聞こうとするように。そして――瞼が、動いた。
ぴくり、と。上瞼の縁が震える。完璧に形成された睫毛が、わずかに持ち上がりかけて、また落ちた。
もう一度、今度はもう少し大きく。室内の全員が、息を止めた。
補助呼吸システムのチューブが、自動切断の準備段階に入ったことを示すランプが点灯する。
ネメシスの胸郭が膨らんだ。
機械的なリズムとは違う、不規則で、しかし力強い収縮。
肋骨の下で横隔膜が動くのが、薄い皮膚越しに見て取れた。
胸が大きく開き、喉が動き、そして空気が、肺に入る。
初めての、自発呼吸。
その瞬間、補助システムが自動切断され、接続チューブが抜け落ちた。
彼の喉から、短く、しかし鮮明な息の音が漏れる。
苦しそうではなかった。まるで長い眠りから覚めたように、自然で静かな呼吸である。
「自発呼吸、確認」
オペレーターの声が震えていた。誰かが小さく、言葉にならない声を上げる。
古参の研究員は、タブレットを持つ手が小刻みに震えていることに気づいたが、止められなかった。
アキラ博士だけが、動かない。ただそれを見ていた。
ネメシスの瞼が、開いた。完全に。
深い闇色の瞳が、世界を捉えた。
漆黒に近い濃紫。光の加減によって底に淡い光紋が浮かぶその瞳が、ゆっくりと焦点を結んでいく。
最初は虚ろだった視線が、次第に鋭さを取り戻し、正面のガラス越しに研究員たちを捉えた。
そこにいる全員が、同じ感覚を覚える。
見られている、ではない。すでに調べ終わっている。
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