第1話 ネメシス計画始動
とある日の、午前三時十七分。地上から四十メートル以上掘り下げられた地下空間は、外の世界とは切り離された別の時間軸で動いていた。
地表では小雨が、静かに降り続けているはずだが、ここには天候も昼夜もない。
あるのは白色蛍光灯の冷たい光と、循環する無菌空気の低い唸り、そして機械の呼吸音だけだった。
「第七実験棟、最終起動シーケンス開始まで残り十八分です」
オペレーターの声が、施設内部に張り巡らされた、スピーカーから淡々と流れる。
極秘研究施設、ラボラトリー・ゼロ。
正式名称を持たないこの施設は、政府のいかなる公式書類にも記載されていない。
存在しない予算で建設され、存在しない研究員によって運営される、この国の闇の中枢とも呼べる場所だ。
入口は存在しない。地下鉄の廃線トンネルに偽装されたアクセスシャフトを経由し、三重の生体認証と磁気シールドを通過してようやく辿り着く、コンクリートと鋼鉄の迷宮。
施設の外壁は電磁遮蔽素材で覆われており、外から電波は一切届かない。
内部の壁面は滑らかな白で統一され、継ぎ目さえほとんど見えないのだ。
廊下は幅三メートル、高さ四メートル。
必要以上に広いのは、大型機材の搬入のためではなく、”万が一”の封鎖作業を想定した設計だ。
床には常に微弱な振動があり、地下深部で稼働し続ける大型冷却システムの産物だと分かる。
その中心部、第七実験棟の扉は今夜、初めて全開放されていた。
「神経接続率、現在九十四・七。上昇中」
「NMSウイルス安定値、基準値内。拒絶反応、ゼロ」
「培養液温度、三十七度二分。正常範囲」
白衣の研究員たちが、端末のモニターを見つめながら、数字を読み上げていく。
第七実験棟の内部は、まるで未来の神殿のようだ。
中央には、直径二メートルを超える円筒形の培養ポットが、一基だけ設置されている。
左右の壁沿いには、補助ポットが十二基ずつ並んでいたが、それらはすべて空だ。
配管だけが蜘蛛の巣のように広がり、中央の一基へと収束している。
培養液は透き通った青白い色をしていた。
表面には、細かい気泡が絶え間なく生まれ、消えていく。
ポットの外周には無数のセンサーと注入ラインが接続され、それぞれのケーブルが床下のコンジットへと吸い込まれている。
上部には六本のアームが伸び、それぞれの先端に異なる形状のアタッチメントが取り付けられていた。
計測、注入、電気刺激、神経接続――それらがすべて、中の”それ”へと繋がっている。
室内の気温は一定で、体感的に肌寒い。
研究員たちは全員、施設支給の白衣の下にインナーを着込んでいた。
「アキラ博士、最終確認をお願いします」
端末操作をしていた若い研究員が振り返り、室内の奥に声をかけた。
白衣の裾を引きずりながら歩み出てきた女性は、見た目だけなら三十代半ばに見える。
しかし眼鏡の奥の目には、長年にわたる実験と不眠の痕跡が刻まれていた。
「神経接続率の最終値は?」
「現在九十六・一。目標値まであと二・九です」
「十分間で到達できるか?」
「シミュレーション上は可能です。ただし――最後の一パーセントが、毎回予測より時間がかかっています。まるで……本人が抵抗しているみたいに」
若い研究員は一瞬口ごもるが、それでも口を動かして報告を続ける。
アキラ博士は眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
「そう。抵抗、ね」
そう呟くように言い彼女は、培養ポットへと視線を移す。
そのポットの中には、一人の少年がいた。
液体の中で直立に近い姿勢を保ち、目を閉じている。
全身に無数の電極と接続端子が貼り付けられているが、それでもそのシルエットは不思議なほど整っていた。
漆黒に近い濃紺の髪が、培養液の中でゆっくりと揺れている。
前髪が目元に影を落とすように流れ、その下の顔は――完璧、という言葉でしか形容できなかった。
端正で、中性的で、彫りは浅いのに輪郭は鋭い。
無駄が一切ない。そう、無駄が一切ないのだ。
人間の顔には通常、どこかに非対称があり、どこかに生活の痕跡がある。
しかし少年の顔には、それがない。
まるで数式によって計算され、最も効率的な形として出力された顔だった。
口元には薄い笑みが浮かんでいる。
眠っているのに、笑っていた。それが何より異様である。
夢を見て笑っているのではない。何かを嘲笑しているのでもない。
ただそこに、笑みという形が存在している。まるでそれが、この顔の初期設定であるかのように。
肌は白く、不自然なほど傷がなかった。静脈が浮かぶことなく、毛穴も目立たない。
人工的に作られた陶器のような質感だが、しかし陶器ではない。
液体の中で微妙に動く胸郭が、確かに呼吸をしていることを示している。
細身の体躯だった。筋肉は薄く、年齢相応の線の細さがある。
しかしその均整は、どこか人体の比率を超えていた。骨格の出方、関節の位置、腱の走り方――必要なものだけが、必要な場所に、過不足なく存在している。
削ぎ落とされすぎた完成度、とでも言うべき佇まいだった。
培養ポットの外壁、正面の最も見やすい位置に、識別プレートが取り付けられている。
IDENTIFICATION CODE : NEMESIS
PROJECT : ANTI-MAGIC INTERFERENCE WEAPON SYSTEM
CLASSIFICATION : ARTIFICIAL COUNTERMEASURE ENTITY
NMS VIRUS INTEGRATION : CONFIRMED。
NEURAL CONNECTION RATE : 96.4 → 96.7 → 97.1
STATUS : FINAL AWAKENING PROCESS — STANDBY
「博士、少しよろしいですか」
別の研究員が、タブレット端末を持って近づいてきた。
四十代の男性で、額に深い皺が刻まれている。
プロジェクトの初期から関わってきた古参のメンバーだ。
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