第20話 一年次前期実力試験
「……まあ、把握はしていた。ミネルヴァに作られた時点で、俺はそういう存在として設計されている。複数の勢力が欲しがる存在として。だから潜入任務が必要だった。それ自体は想定内だ」
ネメシスは独り言を続ける。しかし今日、リュミエールの言葉の中に、想定外の要素があった。
『僕はね、キミが自分で思っているよりも、ずっと自由になれる存在なんだって信じているよ』
その言葉の意味が、まだ処理しきれていない。
自由になれる。ミネルヴァから。日本国家から。聖統院から。学校から。それは本当に可能か。
技術的には可能かもしれない。NMSウイルスの完全ワクチンを生成できるのは自分だけだ。
国家がネメシスを『生かして管理』せざるを得ない理由が、そこにある。
逆に言えば、その条件が交渉の材料になるのだ。
しかし、その選択をする理由が、今のネメシスにはない。
自由になりたい、という欲求が、まだ存在しなかった。
「今は……今は、ない」
ネメシスは声に出して呟く。
窓の外の暗い空が、照明の光を反射している、中庭の水たまりに映っていた。
この三日間で、学校という場所の構造が見えてくる。
教育区画と研究区画と管理区画。
正科と予科の階級構造。聖統院の次世代候補。三つの国家の工作員。ミネルヴァの監視。
その全ての中心に、自分がいた。
「俺は盤上の駒として作られた。しかし、盤上の駒が盤を理解した時、それはまだ駒か」
ネメシスは只管に思考する。答えが出なかった。出す必要がまだなかった。
しかし、その問いが今日初めて生まれている。
――そして時は過ぎ、四月十二日、午前八時三十七分。月曜日だった。
週末を経て、学校の空気が変化している。空は快晴で、雲が少なかった。
入学以来、初めて見る青空である。
春の光が東側の窓から斜めに差し込み、教室の床に長い光の矩形を作っていた。
気温は十六度まで上がっており、上着を脱ぎたくなる程度の暖かさである。
入学式の翌日と同じ気温だが、学校の空気は全く別物になっていた。
一年一組に、今日は全員が早めに登校している。
理由は昨日の夜、学校の公式連絡システムに流れた通知にあった。
その通知の内容は短いものである。
『四月十五日、一年次前期実力試験を実施します。試験形式は魔法バトルトーナメント。詳細は本日のホームルームにて発表します。なお、本試験の結果は国家代表候補選抜の一次資料として使用されます』
ただ、それだけの内容だ。しかし学校内のネットワークは、昨夜の時点で爆発している。
国家代表候補選抜。その言葉が持つ重みを、魔法師候補生であれば誰でも理解していた。
国際魔法競技大会、魔法師外交交渉、有事における国家魔法戦力の中核。
国家代表の肩書きは、魔法師としてのキャリアの最高峰に直結していた。
一年次の、それも最初の試験で、その選抜が始まる。
『異例だ』という投稿が複数上がり、『今年の一年は最初から特別扱いだ』という分析が広まり、『触手魔はどう戦う』という話題が連鎖した。教室の空気が、入学初日とは全く異なる。
着席している生徒全員の姿勢が、わずかに変化していた。
正科生の前列が、意識的に背筋を伸ばしている。
如月颯太が腕を組んで正面を向いており、その顔に入学式の頃の余裕がなかった。
白鷺朱音が端末で何かを確認しており、視線が異様に鋭い。
後列に座る予科生たちも、変化していた。
週末まで下を向いていた生徒たちが、今日は前を向いていた。
ネメシスの決闘の結果が、予科側の空気を変えている。
予科生が、英国の留学生に勝ったという事実が、可能性として認識されていた。
神代美弥は前列の中央で、手鏡型デバイスを膝の上に置き、窓の外を見ている。
神代恒一は窓側の席で、数珠型デバイスを右手に持ち、目を閉じていた。
ルクレツィアはサファイアブルーの瞳で、ネットワークの情報を端末で確認しながら、時折ネメシスの方に視線を向けている。リュミエールは蜂蜜色の瞳を細めて、教室全体を穏やかに見渡していた。
アイゼンは灰青色の左目を前方に向け、完全に静止している。
そして、教室に冬華が静かに入室した。漆黒の長髪が、歩く動作で肩から流れる。
切れ長の目が教室を一望した。その一秒で、全員の姿勢と空気を把握したことが分かる。
彼女が教壇に立つ。しかし、端末を開かなかった。
「全員、通知は読んだな?」
周囲を見渡しながら、冬華は低い声を出す。すると大半の者が、一斉に大きく頷いた。
「まあ、読んでいない者はいないだろう。昨夜のネットワークの騒ぎを見れば分かる」
彼女の口元が、わずかに動く。それは笑みではなく、事実を確認している表情だ。
「四月十五日、一年次前期実力試験。形式は個人戦のトーナメント方式。魔法バトルの実技評価だ」
「はいっ! 神宮寺先生ッ! 国家代表候補選抜の一次資料、とはどういう意味ですか! 試験の結果が、それに使われるんですか!」
冬華が試験について説明している最中、唐突に如月が手を上げて席を立つ。
「ああ、そうだ」
「例年も、そうなんですか!」
「例年はない」
無表情のまま腕を組み、彼女は冷静に返す。そして冬華の、その言葉に教室が、一斉にざわめいた。
「では今年だけ、ということですか……?」
「今年の一年だけだ」
「それは、なぜですか……?」
「あまり詳しくは言えんが、今年の一年には、多くの留学生が在籍している。主に英国、フランス、ドイツ。それぞれが公式の立場で来ている以上、試験の結果は各国の魔法教育機関にも共有される。その結果が、国家間の評価資料として機能する」
如月に鋭い眼差しを向けながら、彼女は淡々とした口調で説明する。
切れ長の目が、真っ直ぐだった。
「つまり、国際的な場での評価になる、ということですか……」
「簡単に言えばそうだ。ただし……それを意識して戦う必要はない。結果だけ見ろ。国家代表だろうが学内評価だろうが、やることは変わらない。自分の全力を出す。それだけだ」
改めて教室全体を見渡しながら、冬華は力の宿る重たい声で告げる。そして、その後も説明は続いた。
トーナメントの形式は、一学年全員参加の完全個人戦。シードなし、対戦の組み合わせは当日発表。
正科生と予科生の区別なく、全員が同じ条件で戦う。使用MAGは各自の登録済みのものに限る。
致死術式の禁止。飛行デバイスの使用は許可。
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