第17話 嫉妬のイギリス少女
「う、羨ましすぎるだろ畜生……っ!」
「触手魔に頬キスって、一体どういう状況だよそれ!?」
「なんで……よりによって不破なんだよ……!」
「フランスって……やっぱりそういう挨拶の文化なのか!?」
「文化の問題じゃねえよ、どう見てもあれは――っ!」
男子生徒の側からは、別の声が次々と上がる。それは嫉妬と困惑が混在した声だ。
しかし、そんな混沌とした状況の中、徐にミサキが席をから立ち上がる。
金色の髪が、動作で肩から流れた。灰色の瞳が、リュミエールを向いている。
普段の業務的な冷静さが、今は別の温度に変わっていた。
「おい、リュミエール・アルノー。一体どういう、つもりだ?」
圧倒的に低い声でミサキは、彼女の名と疑問を同時に口にした。
その口調と声色は、ネメシスと彼女が初めて顔合わせした時のものに近い。
そして彼女の問いかけに対し、リュミエールは屈んでいた姿勢を正すと、そのまま視線を相手に向けた。蜂蜜色の瞳が、ミサキの表情を読んでいる。
「ごめんなさい、驚かせてしまったね。フランスでは頬への接触は挨拶の延長なんだ。傷ついた場所を確認したあとの、回復を祈る意味での……ね?」
「ほう? 随分と言い訳が流暢だな。だが、なるほど。文化の違いだと言えばすべて押し通せると思っているわけだ。――しかし、こちらには通用しない文化もある。それをきちんと把握した上で行動することこそが、留学生としての最低限の礼儀じゃないのか?」
ミサキの声が、さらに低くなり、冷徹な追及を続けた。
「っ……それは……確かにキミの言う通りだね。僕の配慮が足りなかったよ。ごめんなさい」
痛い所を突かれたように、リュミエールの表情が一瞬歪むが、非を認めて素直に頭を下げる。
その謝罪には演出がなく、本当に申し訳なかったと思っている顔だ。
しかし、蜂蜜色の瞳の奥に、少しだけ別の光が滲む。
そしてミサキが軽く咳払いしてから席に座ろうとした時、突如として扉の方から一人の女性の声が響く。
「――そこで、何をなさっていますの?」
既に教室の扉は開かれており、そこには光の宿らない瞳を晒したルクレツィアが立っていた。
今日も制服を優雅に着こなしており、金色の波打く髪が肩から流れている。
サファイアブルーの瞳が、教室の中を見渡し、リュミエール、ネメシス、ミサキの順に捉えた。
状況を把握するのに、一秒もかからない。
「貴女……リュミエール・アルノー、とおっしゃいましたかしら?」
彼女の重たく冷えた声が、廊下から教室内に届く。芝居がかったいつもの口調が今は削れていた。
「貴女……今、何をなさいましたの?」
「ん? なにって、ただの挨拶だよ」
「……挨拶、とおっしゃいましたの?」
「うん、フランス式のね」
「この国で、それも授業中に、クラスメイトの頬に口づけを交わすことが、挨拶として通用すると本気で思っていらっしゃいましたの……!?」
「……思っていなかったわけじゃないんだ。ただ、つい無意識にいつもの癖が出てしまって……。でも、こちらの文化では不適切だったとすぐに気付いたから、さっき彼女にも謝罪したんだよ」
「謝罪すれば済む問題ではございませんわ……ッ!」
額に青筋を浮かべたルクレツィアが、静かに教室へと足を踏み入れる。
彼女の腰元では、王冠口径がいつでも引き抜ける状態で、ホルスターに収められていた。
その全身から放出される魔力は、平常時よりも明らかに高い密度で周囲の空間を威圧し、肌を刺すような緊張感を生み出している。
そして一触即発の空気が漂う中、ルクレツィアはこれ以上ここで騒ぎを大きくすることは不本意であると判断したのか、あるいは誰かの冷ややかな視線を察したのか、深く息を吐き出して辛うじてその怒りを内に押さえ込んだ。
そのまま、張り詰めた緊張感を纏ったまま彼女は自身の席へと戻ることで、その場の破滅的な衝突は辛うじて回避される。そして、時刻は午前十時二十七分。
一時限目が終わり、十分間の休憩に入っていた。雨は午前を通じて降り続けている。
窓ガラスの外側を伝う雨筋が、休憩に入った今も変わらない。
中庭の水たまりが広がっており、石畳の継ぎ目に沿って細い水の流れができていた。
気温は九度のままで、教室内の暖房が静かに稼働している。
外の光が届かないため、照明が朝から点灯し続けていた。教室が休憩の騒ぎに包まれている。
アイゼンの打撃事件とリュミエールのキス事件が連続して起きたことで、クラス全体が今日の一組は何かが違うという空気を持っていた。
生徒同士が席を離れて話し合い、非公式の魔術ネットワークへの投稿が、既に複数上がっている。
だが話題の中心であるネメシスは席に座ったままだった。
次の授業の準備をするでもなく、端末を見るでもなく、ただ窓の外の雨を眺めている。
けれど、そこへ突如としてリュミエールが訪れた。
今度は申告なしに席を離れるのではなく、通路を自然に歩いてネメシスの席の横に来る。
周囲への配慮がある動き方だ。
「隣、いいかな?」
「勝手にしろ。そこの席の者が戻ってくるまでなら、いいんじゃないか?」
腕を組みながら、ネメシスは淡々と答える。
それを聞いてリュミエールは、主不在の隣りの席へと腰を落ち着かせた。
制服のジャケットが、着座の動作でわずかに前が開く。
胸元の豊かな膨らみが、制服越しに存在を主張した。
淡いブロンドの癖毛が、動作で頬の横に流れ、指で軽く耳にかける。
蜂蜜色の瞳が、ネメシスを真っ直ぐに見ていた。
「あ、あの……さっきは、ごめんなさい!」
「謝罪なら疾うに済んでいる」
「でも、もう一度言いたかったんだ。ミサキさんには謝ったけれど、キミ本人に、ちゃんと向き合って謝りたかったから」
リュミエールの声には、明確な感情が乗せられている。
形式的な謝罪ではなく、本当に申し訳ないと思っている声だ。
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