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第16話 フランス少女のキッス

「おい、何をしてるんだ!?」

「な、殴った……!  あいつ、いきなり殴りやがったぞ!」

「ヴァイスベルクが不破を……!?  なんで……」

「せ、先生!  早く止めてください!」

「なんでいきなり……!」


 それから、複数の声が同時に上がる。


「ヴァイスベルクさん! 貴女なにをしているんですか! ちゃんと説明しなさい! 事と次第によっては冬華先生に報告しますよ!」


 すかさず教員が席から立ち上がると、彼女に向けて一連の事情を尋ねた。

 しかしアイゼンは、それを無視するかのように、教員の方を向かない。

 ただ冷たい眼差しを晒したまま、ネメシスだけを見ていた。


 そして(ネメシス)は、床に倒れていた体を起こし、頭を正面へと戻す。

 左頬に衝撃の痕が残っていた。皮膚の下で、NMSウイルスの再生が即座に始まる。

 局所重力による内部損傷が、数秒で修復されていく感覚があった。


 アイゼンの目が、その過程を観察している。

 灰青色の瞳が、ネメシスの頬から首、肩、腕へと移動した。

 再生の速度と範囲を、記録しようとしている目である。


「……まったく、耐久力の確認か? 些か野蛮過ぎる確認方法だと思うがな」


 白い歯を晒しつつ大きく肩を竦めると、彼は相手の強引な行動に少々の苦言を呈した。

 その声には怒りや呆れなどの感情は含まれず、普段の淡泊なものと何ら変わらないものである。


「ああ、そうだ。それ以外に貴様を殴る理由がない」


 低音を響かせながら粛々とした口調でアイゼンが答えた。

 それは初めて聞く声である。低く、感情の起伏がない。

 必要な情報だけを圧縮して出力する声だ。そして、それだけ言うと彼女は自分の席へと戻る。 


 その後、授業は再開されて演習問題が続いていた。

 教員が再開を告げたものの、教室の空気はアイゼンの行動の余韻を、まだ引きずっている。

 ネメシスは机に肘をついた状態で、演習用の紙に視線を落としていた。


 左頬の再生は完了している。痛みの残滓もない。

 しかし、アイゼンの一撃が持っていた局所重力の性質が、神経回路に記録されていた。

 物理打撃に重力付与。防御を貫くのではなく内部から潰す設計。派手さがなく、しかし精密である。


 そんな思考を続けていた時、不意に一つの気配を察知した。

 そう、リュミエールが席を立っていたのである。

 教員への申告もなく、しかし静かに、音を立てずに通路を移動した。


 アイゼンの行動とは対照的な、周囲の空気を乱さない動作である。

 そして、彼女はネメシスの席の横で止まった。


 距離が近かい。その場でリュミエールが僅かに屈み込む。

 ネメシスの顔と同じ高さに、蜂蜜色の瞳が来た。


「不破くん……」


 彼女の声は穏やかそのものである。しかし、今度は授業中の遠慮がなく、直接的だ。


「なんだ?」

「本当に大丈夫なのかい?  アイゼンの一撃は局所重力が付与されていた。内部損傷が出ていても不思議じゃないレベルだよ」

「再生した。問題ない」

「再生した、と言うけれど……痛みはなかったのかい?」

「有るか無いかで言えばあるな」

「……あったんだね。それなのに受けたのかい?  キミなら簡単に避けられたはずなのに」


 リュミエールの瞳が、一瞬揺れるが言葉を続ける。


「データが必要だったからな」

「データのために、その痛みを受け入れた、と言うのかい?」

「ああ、そうだ」

「……頬、見せて貰えないかな?」


 少しの間を置いてから、彼女は小首を傾げた。蜂蜜色の瞳に困惑と、それ以外の何かが混在している。


「必要ない。完治している」

「確認させて欲しいんだよ」

「なぜだ? 貴様が確認する理由がないだろう」

「……僕が、キミを心配しているからだよ」


 リュミエールの声は非常に真っ直ぐで温かな色を含んでいた。

 感情を包み込むタイプの、人間の直接的な言葉である。


 演出がなかった。計算がなかった。ただ心配していた。

 ネメシスは彼女を見る。淡いブロンドの癖毛が、屈み込んだ動作の影響で頬の横に垂れていた。


 細身で華奢な体型が、彼の席の横で依然として屈んでいる。

 制服のジャケットが、その動作でわずかに前が開き、胸元の豊かな膨らみが制服越しにより際立つ。


「はぁ……何度も言っている。傷は既に完治している。確認は不要だ」


 重たい溜息を吐き捨てながら、ネメシスは右手で頭を抱える。


「それでも……っ」


 徐にリュミエールが手を伸ばした。細い指先が、彼の左頬に触れる。

 そこに触れた瞬間、ほんのわずかな光の感覚があった。

 感覚増幅光の微弱な作用。損傷の有無を確認する程度の、医療用途に近い使い方である。


「すごい……本当に完治しているんだね……」


 目を丸くして、驚愕の表情を晒しながら、リュミエールは呟く。


「信じていなかったのか?」

「信じていたよ。でも、自分の目で確認したかったんだ。これだけの速度で再生できるなら、キミは……」


 なにかを彼女が言いかけた時だった。距離が近い。

 屈んだ状態で顔の高さを合わせていたため、二人の顔の距離が三十センチを切っていた。

 リュミエールの体が、わずかに前に傾く。


 蜂蜜色の瞳が、ネメシスの目を見ていた。それから、静かに閉じる。

 そして次の瞬間、彼女の柔らかな唇がネメシスの左頬に触れた。

 その刹那、教室内が阿鼻叫喚に包まれる。


「えっ……えっ!?」

「は……?  今、何を……!?」

「キ、キスした……!?  いま、頬にキスしたぞ!?」

「フランスの留学生が、不破の頬に……ッ!?」

「ちょっと待て不破ァ!  そこ代われ!  命が惜しければそこを代われ!」


 男女両方の声が重なり、膨れ上がり、それは教室の天井にまで届く。

 演習用紙を持っていた生徒が、呆然とした状態のまま紙を床に落とした。


 教員が黒板から振り返り、状況を把握できずに固まる。

 複数の女子生徒が、一斉に席を立ち上がった。


「ちょ、ちょっと待って……っ!?」

「な、何のつもりですか……!?  リュミエールさん!?」

「じゅ、授業中に何をされているんですか、貴女はーーっ!?」


 羞恥心混じりの悲鳴に近い声が、女子側の区画から続々と上がる。

 リュミエールが挨拶のような軽さで、頬にキスをする習慣を持っているとしても、このタイミングと距離感は教室全員に、それ以上の意味として受け取られていた。

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