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第11話 ざわつく観客席

「神宮寺先生、あの触手は……」


 隣の教師が、小声で呟く。


「ああ、見た。理解はできんがな」

「術式展開が確認できませんでした。デバイスの反応もない。あれは学校規定の範囲内なのでしょうか……?」

「審判員が問題なしと判断した。それが答えだ」


 少し間を置いてから、冬華は淡々とした口調で返す。


「しかし……前例が……」

「前例がないなら、今日が前例になる。それだけのこと」


 フィールドに立つネメシスを、鋭い目つきで見据えたまま、冬華は静かに息を吐く。

 そして隣の教師は、彼女の言葉を聞いて口を堅く閉ざす。


 一方でミサキは観客席の下段から、フィールドに向けて歩き始めていた。

 周囲の騒ぎを通り抜けながら、フィールドの入口へと向かう。

 表情は普段と変わらなかった。灰色の瞳がフィールドに立つ、ネメシスだけを捉えている。


 艶のない金色の髪が、施設の照明を受けて光っていた。

 制服のジャケットの前が、歩く動作でわずかに揺れている。

 そして、フィールドの入口から中へと入った。


「ふふっ、何も心配することなく終わったね」


 ごく自然な動作で、ミサキはネメシスの隣に並ぶ。


「ああ、そうだな。実に有意義な時間だったぞ」

「ふぅん、予定通り?」

「ほとんどな」

「ほとんど……ってことは予定外のことがあった?」

「まあな、ワクチンの投与は想定していなかった。感染の移行が予想より早かった」

「それ以外は?」

「特に問題なかった」

「ふーん、それならよかった。何かあったらこっちが動かないといけないから面倒なんだよね」


 少しの間を置いてから、肩を大きく竦めると、彼女は冷めた声で放つ。

 それは感情を切り離した声だが、言葉の選び方が業務的ではなかった。


「ふむ、満足しているか?」


 腕を組みながらネメシスは横目で彼女を見る。


「うーん、まあまあね」

「ほう、理由を聞いても?」

「簡単なことだよ。ネメシスが計画通りに動いて、結果を出した。監視官として、それは満足する理由になるってだけ」

「それだけか?」

「うん、それだけだよ」


 彼の顔を凝視しながらミサキは頷く。だが声の温度が、言葉と少し違った。

 そしてネメシスは彼女から意識を外すと、フィールドの中央に立ち尽くしたまま、観客席を見渡す。


 予科生の歓声と、正科生の抗議と、上級生のざわめきと、教師陣の沈黙が、円形の空間の中で重なる。

 ネメシスの表情は、変わらなかった。勝利への感情がなかった。達成感がなかった。

 ただ、必要な確認が終わった、という処理結果だけが残る。


 ルクレツィアの術式構造を把握した。NMSウイルスの感染速度を実戦で確認した。

 観客の反応から、学校内の各勢力の位置関係を更新した。収穫は十分である。


 しかし、依然として観客席では騒ぎが続いていた。

 いつの間にか周囲は闇に染められており、施設の照明がフィールドを白く照らしている。


 ネメシスは口元に薄い笑みを浮かべると、ミサキと共にフィールドの出口に向けて静かに歩き始めた。

 だが、彼がフィールドの出口に向けて歩き始めた時、観客席から声が上がる。最初は一人だった。


「アイツは……紛れもなく触手魔だ!」


 上段の男子生徒が、立ち上がりながら叫ぶ。その声が、円形の空間に響いた。

 反響が消える前に、別の声が重なる。


「触手の悪魔……!」

「触手使いの予科生……」


 それらの声が、複数の方向から上がった。

 嘲笑ではない。畏怖と興奮が混ざるような、本能的な反応から出た声だ。


 しかし、ネメシスは足を止めない。出口に向けて、同じ速度で歩き続けた。

 触手魔という言葉が、観客席の中で繰り返される。一度言葉として成立すると、それは自己増殖した。


「触手魔の不破ッ!」

「予科生の触手魔がッ!」

「入学二日目で英国の留学生を触手で倒した危険人物ッ!」


 それらの言葉が、観客席の区画を越えて広がる。

 正科側から予科側へ、下段から上段へ、日本人生徒から留学生へ。


 円形の観客席を、その言葉が一周した。上級生の一人が、端末を取り出す。

 学校内の非公式魔術ネットワークに投稿が上がる。


不破ネメシス(予科生)、英国留学生に触手で完封勝利。二つ名:触手魔』


 投稿から三十秒で、反応が重なり始めた。


『触手魔ってなに?』

『術式展開ゼロの触手。肉体から直接生成してたわ。バケモンだぜ、ありゃ』

『魔力消費も、ほぼゼロだったらしい』

『クロウフォードの王印弾が通じなかった……』

『予科生なのに?』

『ふふっ、予科生だからこそ面白いね』


 様々な情報が、ネットワークの中を流れ始める。そして決闘の映像を撮影していた生徒が複数いた。

 フィールドの魔力防御バリアの内側は、撮影機材が制限されているが、観客席からの記録は制限されていない。


 触手が展開した瞬間の映像が、複数の角度から投稿された。拡散速度が、朝の噂の比ではない。

 観客席が動き始めた。女子生徒の区画に、明確な変化が訪れる。


 決闘前まで興味本位で、フィールドを見ていた女子生徒の多くが、今は何かから距離を取る動作をしていた。とある女子生徒は、隣の席の女子と顔を寄せ合い、怯えた様子で小声で囁き合う。


「さっきの触手って、完全に肉体から直接出てたよね……?」

「うん……魔法じゃない。本当に体の一部として、生々しく動いてた……」

「……それで拘束してた。あのクロウフォードさんを、完全に、逃げられないように……」

「もし近くにいたら、私たちも巻き込まれるかもしれないんだよね……?」

「同じクラスだよ、私たち……席だって近いし……」

「……やだ。一組じゃなかったらよかったのに……」


 恐怖に引きつった二人の声が小さく重なる。

 そこには恐怖と嫌悪が混在していたが、その中に別の感情も混じっていた。

 後列の女子生徒二人が、周囲に聞こえない程度の声で話す。

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