第1話 魔術ネットワーク
四月八日、午前七時四十三分。朝だった。昨夜から雲が出ており、空は薄いグレーに覆われている。
雨は降っていないが、湿度が高く、空気が少し重い。
気温は十一度で、昨日より四度低い。制服の上に上着が必要な朝だ。
食堂棟の前に、朝食を取りに来た生徒の列が出来ている。
入学二日目の朝。学校の一日が、静かに動き始めていた。
しかし、その静かさの水面下で、何かが既に広がっている。
食堂棟は中央の商業区画に位置する、二層構造の大きな建物だ。
外壁は淡いベージュで、入口の両脇に背の高い観葉植物が置かれていた。
自動ドアを抜けると、広いホールに長テーブルが整然と並んでいる。
天井は高く、換気システムが静かに稼働しており、朝の食事の匂いが均一に広がっていた。
壁面のスクリーンに本日のメニューが表示され、トレーを持った生徒たちが列を作っている。
そしてネメシスも、当然のようにトレーを持ち、列に並んでいた。
しかし、彼の心は微かにざわめきを覚えている。それは朝食を何にするべきかという思案が三割と、今日が決闘の当日だからというのが七割だ。決闘の詳細については彼が起床を果たすと同時に、スマホにメールでデータが送られてきていたのである。当然の如く、差出人は担任の神宮寺冬華だ。
そして昨夜から今朝にかけて、ネメシスの体調や考え方は何も変わってはいない。
睡眠は四時間ほど取った。NMSウイルスによる代謝の関係で、それで十分である。
思考はクリアで、分析回路は正常稼働していた。
「ねえねえ、聞いた?」
「ん、予科生が留学生と決闘するやつ? それなら、もう知ってる」
「予科生と正科生の決闘、今日の放課後らしいよ!」
「えっ、なに? どういうこと? その予科生の名前は?」
「不破ネメシスって子。昨日入学したばかりの一年生」
「一年生? しかも予科で?」
「そうなの。相手はルクレツィア・クロウフォード。英国王立魔導院から来た留学生」
「……ああ、あの子か。国内外でも有名だよね」
唐突に隣の列から複数の声が聞こえる。
その会話を聞きながら、ネメシスはトレーに朝食を乗せてゆく。
高カロリー食のメニューを選んだ。魔力消費に備えた選択である。
テーブルに移動しながら、食堂の中を見渡した。複数の会話が同時に進行している。
「クロウフォードって、英国の魔法大会でどんな成績だっけ?」
「上位入賞してるはず。情報系の魔法師で、決闘では負け知らずって聞いたぜ」
「予科生って、入学したばかりの子でしょ。無謀じゃない?」
「まあ、でも売られた喧嘩だから仕方ないんじゃね?」
特定のワードを含んだ声の断片が聞こえてきた。情報の広がり方が驚くほど速い。
ネメシスが入学してから一日しか経過していない。
それでも昨日の出来事が、既に上級生にまで届いていた。
「あっ、おはよう。私の愛しき恋人さん」
挨拶を交わしながらミサキが向かいの席に座る。
今日は上着を羽織っており、金色の髪をゆるくまとめていた。
灰色の瞳が、食堂の中を自然に流れている。
「ほんと、凄い速さで例の話が広まってるね」
「ああ、まったくだな」
「想定内?」
「想定内だが、速度が速い。魔術ネットワークが機能しているな」
朝食を食べ始めながらネメシスは呟く。
学校内には、生徒間の情報共有に使われる、魔術ネットワークが存在していた。
公式の連絡システムとは別の、非公式の情報流通網。
SNSに近い構造を持ち、端末を通じて情報が拡散される。
投稿者が匿名になれるため、公式には認められていないが、実質的に学校全体で使用されていた。
そのネットワーク上で、昨夜から情報が流れ始めている。
「うーん、不破ネメシスのデータが、多く調べられてるね」
スマホを弄りながら、ミサキが小声で放つ。
「どこまで見えている?」
「入学直前に登録されたデータだけ。中学校の記録が存在しない期間があるけど、そこは偽装で埋めてある。魔法演算領域の評価値は、標準的な予科生の下限付近に設定してある」
「つまり無名の予科生として、データ上は問題なく通っているか」
「そうだよ。でも……ネットワーク上のコメントを拾ってみたら、ほぼ全員が留学生有利の判断をしてる。不破ネメシスについては、名前を知らない人間の方が多い。昨日初めて登場した一年の予科生、って認識だね」
スマホを机上に置きながら、彼女は少し声を低くした。
「ルクレツィアへの評価は?」
「英国王立魔導院の対外戦略局付属留学生、っていう経歴だけで、かなり信頼値が高い。魔法大会の成績も調べられてて、上位入賞の記録が出てきてる。情報系の魔法師で、決闘での連勝記録が確認されてる」
「なるほどな、もう賭けが始まっているのか」
朝食を食べながらネメシスは、その情報を淡々と処理してゆく。
「うん、昨夜からね」
机上に置いたスマホを指先で操作すると、ミサキは画面を彼の方へと向けた。
その画面には、非公式の賭けサイトが表示されている。
学校内で非公式に運営されているものだと一目でネメシスは理解した。
賭けの対象として『第三訓練棟・放課後決闘』と記載されており、二択が示されている。
ルクレツィア・クロウフォード勝利。不破ネメシス勝利。
オッズが表示されていた。ルクレツィアが一・二倍。ネメシスが八・五倍。
「……八・五倍か」
腕を組みながらネメシスが口を開いた。
「ねっ、圧倒的でしょ」
「一・二倍は、もはや確定に近い評価だ」
「そうだね。ルクレツィア側に賭けた生徒が全体の九十一パーセント。ネメシス側は九パーセント」
「九パーセントは誰だ?」
「ほとんどが予科生だね。あとは面白半分で入れた留学生の一部。あっ、神代恒一も賭けてるって情報が出てた」
「どちらに?」
「ネメシス側に一点だって」
「……はぁ、やれやれだな。まさか昨夜の会話が関係しているとは言わないでくれよ」
少しの間を置いてから、右手を額に当てながら、吐き捨てるように彼は呟く。
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