第13話 オレンジジュース
「今日の収穫を整理する」
腕を組みながらネメシスが言い放つ。
「帰りながら?」
「移動中が、一番処理効率がいい」
「……まあ、そうかもね」
ミサキは制服のジャケットの前を少し合わせた。
気温の低下に対応した動作である。
金色の髪が夕方の光を受けて、普段より少し暖かい色に見えた。
「神代恒一は静観だった。ルクレツィアの発言にも、俺の介入にも反応しなかった」
「うん、私も見てたから分かる」
「しかし、視線は動いていた。静観しながらも、的確に情報を収集していた」
「美弥さんは反応してたしね」
「そうだ。他人を等しく無関心に見る目が、ルクレツィアの発言では動いた。感情の発火点が、公平性の侵害にあると判断できる」
「ルクレツィアさんは?」
「計算通りに動いた。決闘を提案したのも、事前に用意していた選択肢の一つだろう」
「ネメシスは、それに乗ったね」
少し間を置いてからミサキは返す。
「乗ることが最適だった」
「本当に?」
「ルクレツィアが何者かを、実戦の中で確認できる。それ以上の効率的な方法はない」
「……危ない考え方だけど、まあいいか。しかし、くれぐれも組織の不利益は生まないように」
小さく首を左右に振りながら彼女は返すが、最後の方は真剣な目つきと共に声色が低くなる。
宿舎区画への道が男子寮の前で、二手に分かれる場所に差し掛かった。
男子寮は四階建ての建物で、外壁は白と淡いグレーの組み合わせである。
エントランスの両側に植木が並んでおり、魔力遮断素材の扉が自動で開閉する設計だ。
窓は二重構造で、外からの干渉を防ぐ仕様である。
だが、その男子寮の前に、要注意人物の存在がいた。
そして、その者たちの声がネメシスの元まで届く。
「なぜですか! どうして、入学式の時に、いらしてくださらなかったのですか……!」
それは女性の声である。感情の起伏の少ない、澄んだ声。しかし、普段より温度が高い。
そう、神代美弥だ。制服の銀白に近い長髪が、夕方の光の中で揺れている。
氷色の瞳が、目の前の人物を見ていた。いつもの等しく無関心な目ではない。
世界で一番大切な存在を見る目になっていた。その向かいに、神代恒一が立っている。
「出る必要がなかった。俺が出席しては色々と面倒ごとになりそうだったからな」
その声は恒一のものであり言葉は平坦だ。感情の起伏が、美弥より更に少ない。
「お兄様の、晴れの入学式でしたのに……! 私がどれほど、あの場所でお兄様をお待ちしていたか、お分かりになりませんか!?」
「入学式は一種の儀式だ。俺の存在を確認するための場所ではない」
「そのようなお話をしているのではありません……!」
美弥の声が、少し高くなる。感情を抑制している痕跡のある、しかし抑えきれていない声だ。
「私が申し上げたいのは、お兄様がいらっしゃるとおっしゃったのに、いらしてくださらなかったということ……。それだけです!」
「状況が変わった、とだけ言っておく。……まあ、大切な妹を巻き込む訳にはいかないからな」
「……どのような、状況なんですか……?」
「それは言えないな。完全な極秘事項だ。仮にそれを言ってしまったら、俺の首が飛ぶ事になる。物理的にな。……ははっ」
「……また、聖統院が絡んでいる件ですか?」
少し間を置いてから彼女は、恐る恐ると言う感じで尋ねる。
しかし、その問いに恒一が答えることはなく、ただ真顔を貫いていた。
だが、その沈黙こそが、答えに等しい。
僅かに美弥が視線を下げた。氷色の瞳が、自分の足元を見ている。
「……わかりました。どうか、お気をつけて。お兄様の御身に、何事もないことを祈っております」
彼女の声のトーンが戻っていた。感情を切り離した、澄んだ声に。
そして、それだけ言うと彼女が歩き出した。女子寮の方向へ。
恒一は美弥の背中をただ呆然と眺めていた。一秒だけ。それから、視線を前に戻した。
一方でネメシスは立ち止まらない。自然な歩みのまま、二人の横を通り過ぎた。
恒一と視線が微かに交わる。一秒。どちらも何も言わなかった。
そのままネメシスは、男子寮のエントランスへと入る。
「ねぇ、今の見た?」
別れ際にミサキが小声で呟く。
「ああ、当然だ。少々、気になる事を話していたな」
「だよね。よし、後で話そう。また連絡するから、ちゃんとスマホ見てよね!」
「ああ、できる限り善処する」
小さく頷きながら返すと、そのままネメシスは視線を正面へと向けた。
この場で二人は別れると、ミサキは女子寮へと足を進めてゆく。
そして男子寮の内部は、外観より広く感じた。エントランスを入ると、右手にロビーがある。
ソファと低いテーブルが配置された休憩エリアで、窓が西側に向いており夕方の光が差し込んでいた。
壁面に掲示板があり、学校からの連絡事項が貼られている。
左手の廊下の奥に、自動販売機が二台並んでいた。
ネメシスは、そこで足を止める。自動販売機。
それはデータとしては知っていた。硬貨または電子決済で飲料を購入する機械である。
しかし実物を前にしたのは、これが初めてのこと。ラインナップを確認した。
炭酸飲料、果汁飲料、緑茶、スポーツドリンク、コーヒー。
ラベルのデザインが様々で、それぞれに異なる情報が記載されていた。
ネメシスは電子決済で一本選ぶ。
オレンジジュース。果汁百パーセントと記載されていた。
缶を取り出し、開ける。一口だけ飲んだ。
「…………」
彼の動きが完全に停止する。甘い。酸っぱい。何かが口の中で広がった。
データで知っていた情報と、実際の感覚の間に、埋めようのない差がある。
甘みと酸味と、果物の香りが混じった何かが、神経回路を通って処理された。
それを何と呼ぶべきか、ネメシスには分からない。しかし悪くない、という判断は出た。
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