第49話「魔王の時代」
黒曜王都ヴァルドレインに、黒い旗が戻った。
勝利の凱旋ではなかった。
角笛は鳴らない。
歓声もない。
城門の上に立つ異種族たちは、膝をつき、ただ頭を垂れていた。
彼らは知っている。
これは祭りではない。
慈悲王を殺した人類王国が終わったという報告のために、新王が帰ってきたのだ。
王都の石畳には、かつて人類軍の砲撃で刻まれた傷がまだ残っている。
東門の補修跡も、黒曜宮の外壁に走る亀裂も、消えてはいない。
レイヴァルトは黒い馬車から降りた。
その後ろには、異種族の長たちが続く。
ガルム。
ボルガン。
リュシエラ。
エルミア。
セレイア。
ネレイド。
ゴウラ。
竜人族の副将。
ザルギウスはいない。
まだ完全には戻れない。
だが、竜人副将の手には、ザルギウスの黒翼旗が握られていた。
レイヴァルトは黒曜宮へ入った。
玉座の間には、黒い繭の残骸がまだ残されている。
彼が眠っていた証。
父を守れなかった証。
そして、民を守るために眠った証。
レイヴァルトはそれを一瞥した。
捨てるつもりはない。
だが、もうそこへ戻ることもない。
「霊廟へ行く」
短い命令に、全員が頭を垂れた。
◇
黒曜宮地下。
王族霊廟へ続く階段は、冷たく静かだった。
壁には黒曜石の灯火が並び、淡い青黒い光を放っている。
その光は、かつて父王アルヴァーンが好んだ色だった。
慈悲王。
異種族連合の統一者。
人類を滅ぼせる力を持ちながら、滅ぼさなかった王。
人間だった前世の記憶を抱え、それでも異種族の王として生きた者。
そして、白杯の間で殺された王。
霊廟の扉が開く。
中には、黒い石棺があった。
豪奢ではない。
だが、重い。
異種族の長たちは扉の前で膝をついた。
レイヴァルトだけが石棺の前へ進む。
彼はしばらく黙っていた。
父の声を思い出す。
王であれ。
民を見捨てるな。
人類を許せとは、言わなかった。
レイヴァルトは膝をつかなかった。
王として立ったまま、父の墓前に向き合う。
「父上」
声は静かだった。
「戻りました」
霊廟に返事はない。
それでいい。
死者は戻らない。
だからこそ、生者が報告する。
「人類王都アルディナは陥落しました」
彼は淡々と告げた。
「聖教会中枢は処刑しました。白杯の間であなたを殺した罪、聖縛王冠、聖断杭、聖火、奴隷、鉱山、羽根、海路。すべて記録の上で裁きました」
黒い石棺は沈黙している。
「人類王アレクシオス三世も処刑しました。王冠は砕き、玉座も壊しました」
レイヴァルトの声は揺れない。
「人類王国の法、軍制、貴族院、奴隷制度、税制、国璽、国境線。すべて終わらせました」
静寂。
それは赦しではない。
断罪を聞く沈黙だった。
レイヴァルトは続けた。
「あなたの慈悲は、異種族連合を作りました」
その言葉だけは、少し低かった。
「狼族も、妖精族も、ドワーフも、竜人族も、翼人族も、吸血種も、鬼族も、海魔族も。あなたがいなければ、ひとつの国にはならなかった」
彼は父を侮辱しない。
父の慈悲を愚かだとは言わない。
それは確かに偉大だった。
だが。
「ですが、あなたの慈悲は人類には通じませんでした」
霊廟の空気が冷たく沈む。
「白杯の間で、人類は答えを出しました」
レイヴァルトは石棺を見下ろす。
「あなたが差し出した最後の機会に、彼らは刃を持ち込みました」
彼の影が、霊廟の床に伸びる。
「だから、俺はあなたの道を選びませんでした」
◇
扉の前で、ガルムが低く頭を下げた。
「慈悲王陛下」
狼族の長は、重傷の残る肩を押さえながら言った。
「灰牙村の名を、取り戻しました。連れ去られた者たちを救い、番号ではなく名を記録しました。ローデンに連なる赤鷹の道も、まだ追っています」
彼の声には、怒りが残っている。
だが、それは王命に従う怒りだった。
「狼族は、あなたの子に従いました」
次にボルガンが進み出る。
「王火炉は戻りました」
彼は深く頭を下げた。
「グラド=ヴォルグは、人類の神火炉ではなく、王火炉を抱く鉄の都へ戻りました。番号札は焼き、炉の名は取り返しました。王国工廠も砕きました」
ボルガンは石棺を見上げる。
「あなたが火入れした炉は、まだ燃えています」
リュシエラがゆっくりと前へ出た。
羽の光は弱い。
歩くたび、消えそうになる。
それでも彼女は倒れなかった。
「森は、まだ完全には戻っていません」
彼女は静かに言った。
「ですが、聖火は神の火ではなくなりました。焼いた泉の名を、焼いた木の名を、妖精の名を語る火へ変えました」
リュシエラは目を伏せる。
「慈悲王陛下。あなたが守った森の名は、消えていません」
セレイアは布に包まれた羽根を抱えて膝をついた。
「奪われた羽根を回収しました。まだすべてではありません。ですが、空へ返す準備を進めています」
ネレイドは水の小瓶を置いた。
「海路は戻りました。港湾貴族の旗は降ろし、捕獲網は記録として沈めました」
ゴウラは片角を鳴らして膝をついた。
「砦は砕いた。だが、王命なく民家は砕いていない。怒りはまだある。だが、王の命令に従った」
竜人副将は、ザルギウスの黒翼旗を掲げた。
「ザルギウス将軍は、まだ完全には戻りません。ですが命は繋がっています。竜人族は王国軍主力を降伏させ、誇りを折らせませんでした」
最後にエルミアが進む。
「記録は続いています」
片腕の吸血種は、黒い帳簿を胸に抱いた。
「死者の名、救出者の名、加害者の名、王国の法、聖教会の罪、貴族の紋章、奴隷商の帳簿。すべて記録しています」
彼女は静かに頭を下げた。
「慈悲王陛下。あなたの死は、隠されません」
霊廟は沈黙したままだった。
だが、その沈黙の中に、異種族の報告が積み重なっていく。
奪われたもの。
取り返したもの。
まだ戻らないもの。
それでも名を失わせなかったもの。
父王アルヴァーンの墓前に、それらが置かれていく。
◇
レイヴァルトは、再び石棺の前に立った。
「父上」
彼は言う。
「俺は、あなたを理解しました」
父が転生者だったこと。
前世で人間だったこと。
人類を滅ぼせなかった理由。
人間だった自分を捨てきれなかった弱さ。
それを異種族を守る強さへ変えたこと。
すべてを知った。
「あなたは弱かった」
異種族の長たちは、息を呑まない。
その言葉が侮辱ではないことを、彼らはもう分かっている。
「ですが、その弱さを抱えたまま、王でした」
レイヴァルトの声は低い。
「あなたの慈悲は、偉大でした」
石棺は答えない。
「だからこそ、俺は継ぎません」
その言葉が、霊廟の中で重く響いた。
「あなたの慈悲を人類へ差し出せば、あなたをもう一度殺すことになる」
レイヴァルトは黒い石棺へ手を置いた。
冷たい。
死者の石だ。
「俺はあなたの民を守りました。あなたの国を守りました。あなたを殺した国を滅ぼしました」
彼の目に涙はない。
「ですが、あなたの道は選びませんでした」
長い沈黙。
誰も言葉を挟まない。
やがて、レイヴァルトは低く告げた。
「父上。俺は慈悲王にはなりません」
それは決別だった。
同時に、報告でもあった。
「俺は、あなたの遺児です」
彼は手を離す。
「だが、あなたの影では終わらない」
◇
霊廟の奥で、黒い灯火が揺れた。
風はない。
それでも灯火は、かすかに揺れた。
リュシエラが顔を上げる。
「森の記憶が……」
エルミアも目を細めた。
「記録水晶の残響かもしれません」
石棺の前の空間に、薄い光が浮かんだ。
父王アルヴァーンの姿ではない。
声でもない。
ただ、かつて遺された記録の残響が、ほんの一瞬だけ霊廟の空気に溶けた。
お前は私になる必要はない。
お前の時代を、お前のやり方で選べ。
かつて聞いた言葉。
レイヴァルトは目を閉じた。
「選びました」
短く答える。
「あなたの望む時代ではないでしょう」
黒い灯火が揺れる。
「それでも、俺の時代です」
灯火は消えなかった。
ただ、静かに燃え続けた。
父が許したのではない。
父が否定したのでもない。
死者はもう答えない。
だから、生きている王が選ぶしかない。
レイヴァルトは背を向けた。
霊廟の中で、異種族の長たちが深く頭を垂れる。
石棺の上には、各種族の報告が置かれていた。
灰牙村の黒天蓋の旗片。
王火炉の火入れ印の写し。
焼けた森の小枝。
回収された翼人族の羽根。
海路の水を入れた小瓶。
砕かれた砦の石片。
王国軍旗を封じた黒い布片。
そして、エルミアの記録帳の写し。
慈悲王が守った国は、血と憎悪の中でまだ立っている。
その王は、もう慈悲王ではない。
◇
黒曜宮の玉座の間へ戻ると、夜が近づいていた。
玉座の前には、黒い繭の残骸がある。
レイヴァルトはそれを見下ろした。
かつて自分は眠っていた。
父を守れず、民を守るために眠り、目覚めた時にはすべてが奪われていた。
もう眠らない。
彼は玉座へ上がる。
異種族の長たちが並ぶ。
誰も新しい慈悲を求めていない。
誰も人類への赦しを願っていない。
彼らは自分たちの王が何をしたかを知っている。
人類にとっては魔王。
異種族にとっては王。
父王にとっては、慈悲を継がなかった息子。
レイヴァルトは玉座に座った。
広間の空気が沈む。
エルミアが問う。
「王よ。次の時代の名を、どう記録しましょう」
慈悲王の時代は終わった。
人類王国も終わった。
だが、国は続く。
異種族連合は、これから新しい時代へ入る。
レイヴァルトは短く答えた。
「魔王の時代だ」
誰も否定しなかった。
その言葉は人類の蔑称ではなくなっていた。
新しい王が、自ら選んだ名だった。
「慈悲は終わった」
彼は玉座から告げる。
「次は、俺の時代を始める」
黒曜宮の外で、夜の風が黒い旗を揺らした。
慈悲王の遺児は、父の墓前に報告を終えた。
そして今、新たなる魔王として、最初の夜を越えようとしていた。




