第38話「父王も転生者だった」
第二の記録水晶は、赤い光を宿していた。
黒曜宮地下の隠し部屋。
父王アルヴァーンが残した、誰にも知られぬ部屋。
そこには、この世界のものではない遺品と、前世の記憶を抱えた王の声が眠っている。
第一の記録は、すでに終わっていた。
慈悲王アルヴァーンは転生者だった。
前世で人間だった。
人間だけの世界で死に、この世界に異種族の王族として生まれ直した。
そして、その記憶に縛られ、人類を種族ごと滅ぼすことができなかった。
その事実は、地下室にいる者たちの胸へ重く沈んでいた。
ガルムは牙を噛みしめている。
リュシエラは弱った羽を畳み、静かに水晶を見ている。
ボルガンは槌の柄を握ったまま、父王の隠し部屋の冷たい床を睨んでいた。
エルミアは記録を続ける。
レイヴァルトは、第二の記録水晶へ手を伸ばした。
「開け」
短い命令。
王の魔力が水晶へ流れ込む。
赤い光が広がり、部屋の壁に映像が投影された。
最初に映ったのは、炎だった。
白い炎ではない。
聖教会の聖火ではない。
赤黒い炎。
焼かれているのは、異種族の集落だった。
まだ黒曜王都が異種族連合の中心になるより前。
各種族がそれぞれの土地で生き、それぞれの怒りと恐怖を抱えていた時代。
映像の中で、獣人の家が燃えていた。
人類兵が笑いながら檻を引いている。鎖につながれた獣人の子ども。耳を掴まれて地面へ倒される母親。槍の柄で背を打たれる老人。
遠くでは、妖精の小さな森が切り払われていた。
木の根に聖印が打たれ、泉へ白い粉が投げ込まれ、飛べなくなった妖精が布袋へ押し込まれていた。
さらに映像が流れる。
ドワーフの小鉱山。
採掘権を名目に押し入った人類の徴税隊が、坑夫たちを並ばせている。抵抗した若いドワーフは、槌を奪われ、地面へ押し倒された。
人類の旗が立つ。
聖教会の司祭が叫ぶ。
『神敵の労苦は、神の資源へ変えられる。異形どもに所有権はない』
記録の中のアルヴァーンは、まだ若かった。
慈悲王と呼ばれる前。
異種族連合をまとめる前。
父親になる前。
彼の目には、激しい怒りがあった。
『この日、私は本気で人類を滅ぼそうとした』
アルヴァーンの声が、水晶から流れる。
『それは比喩ではない。砦を落とすのでも、軍を退けるのでも、王へ警告するのでもない。人類という種を、この大陸から消すつもりだった』
映像が変わる。
山上に立つ若きアルヴァーン。
彼の眼下には、人類の前線砦があった。
白い石壁。
聖教会の旗。
王国の軍旗。
檻。
荷車。
積まれた奪取品。
そして、砦の中庭に集められた異種族たち。
獣人。
妖精。
ドワーフ。
名も知らぬ小種族。
彼らは商品として数えられていた。
記録の中のアルヴァーンが、片手を上げる。
空が暗くなる。
砦の上に、巨大な魔法陣が広がっていく。
それはレイヴァルトの黒天蓋とは違う。
守るための天蓋ではない。
落とすための天だった。
星の光を押し潰し、地上を砦ごと消すほどの魔力が集まっている。
ガルムが低く呟く。
「先王陛下にも、こういう時があったのか」
ボルガンは重く頷いた。
「人類を滅ぼす力があった、というのは誇張ではなかったわけだ」
記録の中で、人類兵が恐怖に空を見上げている。
司祭が祈る。
騎士が叫ぶ。
砦の中の人間たちは、初めて自分たちが裁かれる側に立ったことを理解していた。
アルヴァーンの魔力は、さらに膨れ上がる。
そのまま手を振り下ろせば、砦は消える。
砦だけではない。
そこから連なる補給路も、近隣の軍営も、背後の開拓村も、王国西端の都市群も巻き込める。
若きアルヴァーンには、それができた。
『私は人類を殺そうとした。兵だけではない。司祭だけでもない。人類の営みごと焼き払うつもりだった』
レイヴァルトは無言で見ている。
父王のその姿に、意外さはなかった。
むしろ当然だと思った。
それだけの怒りを抱く資格が、父にはあった。
問題は、なぜ止めたかだ。
映像の中で、アルヴァーンの手が震えた。
魔法陣は完成している。
だが、指が動かない。
その瞬間、水晶に別の光景が重なった。
白い部屋。
前世の病床。
窓の外の街。
人間の子どもが、道路を渡っている。
誰かが笑っている。
誰かが泣いている。
知らない人間たち。
前世でアルヴァーンが属していた世界の断片。
記録の声が低くなる。
『砦の中に、人間の子どもがいた』
映像が砦へ戻る。
砦の隅。
兵士の家族らしき者たちが避難していた。
子どもが母親にしがみついている。
怯えている。
その目が、若きアルヴァーンの前世の記憶に重なった。
『その子が何をしたわけでもない。だが、その子の父は異種族を檻に入れた兵かもしれない。その子の母は、獣人の毛皮を買った女かもしれない。その子自身も、大人になれば同じことをするのかもしれない』
アルヴァーンの声は穏やかではなかった。
そこには、苦い自己嫌悪があった。
『だから殺せばよかった。根を絶つなら、そこで迷うべきではなかった』
レイヴァルトの目が冷たく細くなる。
それは、今の彼と近い考えだった。
加害の種を、未来ごと断つ。
父もそこまで考えていた。
だが、選べなかった。
『しかし私は、その子の顔に、前世の人間を見た。前世の自分を見た。病床で泣いていた者たちを見た。人間だった記憶が、私の手を止めた』
魔法陣が揺れる。
若きアルヴァーンの表情が歪む。
怒り。
嫌悪。
未練。
罪悪感。
王としての責務と、前世の人間としての記憶が、胸の奥で激突している。
『その時、私は悟った。私は人類を憎める。人類を裁ける。人類の軍を滅ぼすこともできる。だが、人類という種そのものを消すには、まだ人間だった自分が邪魔をする』
リュシエラが静かに目を伏せた。
「許したのではなく、できなかった……」
アルヴァーンの声が続く。
『そうだ。私はあの日、人類を許したのではない。滅ぼし切れなかった』
その言葉が、地下室に重く落ちた。
慈悲王。
そう呼ばれた王の慈悲の始まりは、美しい光ではなかった。
迷いだった。
前世の記憶だった。
人間だった自分への嫌悪と未練だった。
父王自身が、それを認めていた。
ガルムが低く言った。
「なら、灰牙村を焼いた人間どもも、その子らも、いずれ同じになる」
「かもしれない」
リュシエラが答える。
「でも、アルヴァーン様には、その『いずれ』を殺せなかった」
ボルガンは唸る。
「王としては、甘い」
エルミアが筆を止めずに言った。
「ですが、その甘さがなければ、異種族同士を束ねる道も生まれなかった可能性があります」
ガルムは牙を剥く。
「それで死んだ者は納得しない」
「記録します」
エルミアの声は静かだった。
「納得ではなく、事実として」
レイヴァルトは、まだ何も言わない。
水晶の映像は続く。
若きアルヴァーンは、完成した殲滅魔法を解いた。
魔法陣が崩れ、夜空へ散っていく。
砦の人類たちは、自分たちが助かったことも理解できず、膝から崩れ落ちている。
だが、アルヴァーンは彼らを無傷で逃がしたわけではない。
次の瞬間、彼は砦の外壁だけを砕いた。
檻を壊した。
異種族たちを拘束していた鎖を焼き切った。
聖教会の旗を灰にした。
指揮官の剣を折り、司祭の聖印を砕いた。
兵の武器をすべて地面へ叩き落とした。
彼は人類を滅ぼさなかった。
だが、罰さなかったわけではない。
若きアルヴァーンの声が映像の中に響く。
『立ち去れ。二度と異種族の土地へ踏み入るな』
人類の指揮官が震えながら膝をつく。
『慈悲を……』
アルヴァーンの目が冷える。
『これは慈悲ではない。私の弱さだ』
その言葉を、人類側は理解しなかった。
彼らは助かった。
殺されなかった。
ならば、それを慈悲と呼んだ。
その誤解が、後に大きくなっていく。
記録の声が続く。
『人類は、私が滅ぼさなかったことを、いつか自分たちに都合よく解釈するだろうと思った』
映像には、救出された異種族たちが映る。
怯えた獣人。
翼を折られた小妖精。
鎖を外されたドワーフ。
彼らは若きアルヴァーンを見上げていた。
神を見るように。
救済者を見るように。
『そして、異種族たちもまた、私を慈悲深い王として見るだろうと思った』
水晶の声が沈む。
『そのどちらも、間違いではなかった。だが、どちらも全てではなかった』
アルヴァーンは、砦の跡で膝をついている異種族たちの前に立つ。
彼は言う。
『別々にいれば、また奪われる』
獣人が顔を上げる。
『森だけでは焼かれる。鉱山だけでは奪われる。翼だけでは落とされる。夜だけでは追い詰められる』
若きアルヴァーンは手を差し出した。
『ならば、ひとつの国を作る』
映像が変わっていく。
その日から、アルヴァーンは人類殲滅ではなく、異種族統一へ向かった。
狼族の長と交渉する。
妖精の森で誓約を結ぶ。
ドワーフの炉前に立つ。
竜人の高山拠点へ登る。
吸血種の夜の館へ入る。
鬼族の砦で角を折らずに言葉を交わす。
海魔族の港で潮を浴びながら盟約を交わす。
戦いもあった。
不信もあった。
異種族同士の憎しみもあった。
アルヴァーンはそれらを潰すのではなく、受け止め、繋ぎ、国へ変えていった。
『私は、人類を滅ぼせなかった弱さを、異種族を守る強さへ変えようとした』
その言葉に、ボルガンが目を閉じた。
王火炉の火入れの日が映る。
若いボルガンがいる。
まだ今より髭も短く、背もわずかに真っ直ぐだ。
王火炉の前で、アルヴァーンが火を入れる。
ドワーフたちが槌を掲げる。
『ドワーフは炉を差し出したのではない。炉の前に、私を立たせてくれた』
ボルガンの喉が震える。
リュシエラの森が映る。
焼け跡から新芽が生える。
『妖精は森の道を開いてくれた』
ガルムの一族が映る。
狼族の子がアルヴァーンの外套の陰で眠る。
『狼族は、私の足元で眠れるほどには信じてくれた』
吸血種の夜の誓い。
竜人の不屈の膝。
それらがひとつずつ映る。
『この国は、私の弱さだけでできたものではない。お前たちの誇りと、怒りと、耐えた時間と、差し出してくれた信頼でできた』
水晶の声が重くなる。
『だからこそ、私はこの国を愛した』
地下室の誰も、父王をただの愚か者とは言えなかった。
この記録は、父王の弁明ではない。
父王の罪の記録でもある。
だが同時に、異種族連合がどう作られたかの記録でもあった。
アルヴァーンの慈悲は、人類への甘さだけではなかった。
傷ついた種族をひとつの国へまとめる力でもあった。
レイヴァルトは、ようやく口を開いた。
「父上は、人類を滅ぼせなかった」
誰も答えない。
「その代わり、異種族を束ねた」
水晶の赤い光が揺れる。
「結果として、人類は父を殺した」
その言葉に、地下室の空気が鋭くなる。
父王の記録がどれほど深い理由を示しても、そこは変わらない。
人類は慈悲を受けた。
そして、裏切った。
白杯の間で父王を殺した。
レイヴァルトは続けた。
「ならば俺が取るべきものは決まっている」
ガルムが耳を動かす。
ボルガンが顔を上げる。
リュシエラが静かに目を開ける。
「異種族を束ねる王の力は継ぐ」
レイヴァルトの声は冷たい。
「人類を滅ぼせなかった弱さは捨てる」
地下室に、その宣言が落ちた。
それは父王の否定ではない。
父王の全てを捨てる言葉でもない。
必要なものだけを取る。
不要なものは捨てる。
父王自身が記録で語った通りに。
だが、その選択は慈悲ではなく、裁きへ向かっていた。
エルミアが静かに記録する。
「陛下の御言葉として残します」
ボルガンが槌を下げる。
「それなら、俺は納得できる。先王陛下が作った国を、今の王が守る。人類への火は、今度こそ消さない」
リュシエラが小さく頷く。
「森は覚えます。救われたことも、焼かれたことも。そして、次に焼かれるのが人類であることも」
ガルムが低く唸る。
「灰牙村の死者には、それで報告できる」
レイヴァルトは、彼らの言葉に返事をしなかった。
ただ、第二の記録水晶を見据える。
映像は終わりに向かっていた。
若きアルヴァーンが、最初に滅ぼそうとした人類の砦の跡に立っている。
彼は背を向け、異種族たちを連れて歩き始める。
後ろには、人類の生存者が残された。
彼らは助かった。
そして、その助かった事実を、後に慈悲と呼び、弱さと見なし、利用する者たちが現れる。
水晶の声が静かに続く。
『私は、最初の日に人類を滅ぼせなかった』
映像が暗くなる。
『そこから、私は和平と抑止を王道とした。人類を滅ぼさず、異種族を守る道を選んだ』
第三の記録水晶が淡く光る。
『だが、その道を最後まで続けるには、もうひとつ理由があった』
レイヴァルトの目が細くなる。
『私は、人類と異種族の間に、決して越えてはならない線を引いたつもりだった』
白杯の間の幻影が、一瞬だけ映った。
和平の場。
聖印。
父王の血。
黒天蓋。
レイヴァルトの眠り。
『そして、人類はその線を越えた』
父王の声が、初めてわずかに暗くなった。
『第三の記録を開け。私がなぜ、和平に固執したのか。なぜ、白杯の間へ行ったのか。そこに残した』
第二の記録水晶は、そこで光を失った。
地下室は沈黙に包まれる。
第三の記録水晶だけが、赤く灯っている。
レイヴァルトは、しばらくそれを見ていた。
それから、父の机に置かれた黒い日記へ視線を移す。
日記の封印の一部が、いつの間にか解けていた。
黒く塗り潰されていた行の一つが読めるようになっている。
――私は、人類に最後の機会を与えた。
その下は、まだ封じられている。
レイヴァルトは冷たく笑った。
「最後の機会か」
誰も言わない。
その結果が何だったか、全員が知っている。
白杯の間。
聖縛王冠。
聖断杭。
父王の死。
レイヴァルトは第三の記録水晶へ手を伸ばす前に、短く言った。
「父上。あなたの慈悲の理由を、最後まで聞く」
黒天蓋の影が、床へ広がる。
「その上で、終わらせる」
第三の記録水晶が、静かに脈打った。
次に語られるのは、慈悲王が最後まで慈悲を捨てなかった理由。
そして、その慈悲が殺された日の真実だった。




