Re-birth day
その夜は普段と変わらない、いつも通り肌寒い夜の筈だった。すきま風に肌をくすぐられて目を覚まし、ボロ布越しの温もりに身を預けてまた眠りにつくのが彼の癖。ただその日だけは、常に背に感じる筈の温もりがなかった。
一瞬で夢と現実の狭間から覚醒し、毛布を引き剥がす。そこにいる筈の2人の姿は無く、リンドの本が数冊だけ、持ち主の隙間を埋めるように散乱している。誘拐か、いやそれはないと思い返す。彼1人だけが残される理由がない。どこかに連れて行かれるのなら、僕も一緒がいい。彼はそう思った。
外は月明かりが淡く海岸線を照らす真夜中だ。他の子を起こさないように足音を殺して寝ぐらの間を潜り抜け、思い当たる箇所を手当たり次第に駆け回った。
昼間は観光客や漂着物を探す人で溢れる海岸も、深夜となれば人の気配はない。ただ青と白を区切る汀が続いている。リンドによればごく稀にウミガメが産卵に訪れるらしいが、そんな雰囲気も卵を見つけたこともない。焚火に使えそうな細長い木材を一本拾いつつ、彼は市街地の方へ向かった。
真夜中の市街地は閑散として明かりもまばらだったが、わずかばかりの通行人が互いに目も合わせずに小走りで行き交っている。途中で、見るからに質の良いコートと帽子を身につけた女とすれ違った。外界と自分を隔離するように素肌を隠すその姿は実に不審者然としていたが、彼は不信感を抱かなかった。堂々と道を闊歩する姿勢が至極様になっていたからだ。貧民窟に跋扈するみたいな、背を曲げて卑しい目をした大人とは違う。僕もコートの裾を翻して颯爽と歩く側にいたい。そしてオルマとリンドと肩を並べて歩く。そんな妄想に耽りながら、彼は夜を駆けて行った。
元より期待はしていなかったが、オルマ行きつけの素材買い取り店も扉を固く閉じて消灯している。顔見知りの店主ならオルマの行きそうな場所を知っているかもと考えたが、戸を叩くのはやめておいた。店主との関係性は金で繋がっているだけの脆い縁だ。眠りを妨げれば激昂され、二度と物品の取引をしてくれることはないだろうと思った。その場に留まって朝を待つのも居心地が悪く、彼は店の前を去った。
貧民窟に住まう子供は一様に身よりがなく、金も体力も少ない為に行動範囲は決して広くない。彼はここにいないで欲しいと目を背けていた場所、そして最初からここにいるだろうと頭のどこかで目星をつけていた箇所へと足を運んだ。
生きる希望の無い腐った大人達の居住区、甘く濁った香りに潮風の混ざった目に染みる空間の入口に辿り着いた時、彼の中で一つの決心がついていた。他の候補は全て捜し尽くした。2人がいるのならここ以外にない。2人を取り返さずして、決してここから出はしまいと。
だが、彼の小さな体に秘めた宿願は視界の端に捉えた布切れを意識した瞬間にあっさりと瓦解した。大人の居住区の入口から少し外れた物陰、そこは大人達が使わない廃材を捨てるゴミ捨て場になっている。収集業者も寄り付かないせいで生まれたゴミ山の、端に覗く緑色の布の質感には見覚えがあった。貯めたお金で買ったお気に入りの服だとリンドは言っていた。
「はは……、なんか見覚えがあるなあ。かくれんぼの時間にしては遅いよ?」
口から落ちた声も自覚できずに駆け寄り、木材を投げ捨てて周囲のゴミをかき分ける。布の先には見飽きる程見慣れた少女の顔が見える筈だ。ただ安心したかった。彼の予想通り、緑色の布は見知った人の身体を包んでいた。しかし、その外見は大きく変わっていた。
少女の腕は焼け爛れ、顔は元の輪郭が分からない程に歪んでいた。手には何かを持っているが、ゴミ山の影に入っていてよく見えない。手入れもしないのに綺麗に揃っていた髪の毛は乱れ裂け、浅黒かった肌の上には異質な黒が塗り重ねられている。彼も一度喰らったことがあったので理解できた。大人達が気まぐれに彼の腕に火種を押し付けた時、似た色の火傷が付いた。
死、という言葉が脳を掠る。そこまでで、彼は一旦考えるのを止めた。脱力して動かないリンドを背負い、大人の区画から見えない位置にリンドの身体を横たえる。姿の見えないオルマも程なくして同じ場所で見つかった。やはり手酷く傷付いたオルマをおぶって連れ出すと、リンドが薄く目を見開いているのが分かった。
「リンド!」
「ああ、来たんだね。はは……、やっちゃったなあ」
「なんで……?なんでここにいるんだよ……?」
「ごめんねぇ、上手くいくかと思ったんだけど、見つかっちゃった。でもね、1つだけ持ってこれたの」
リンドの小さな手の先には、楕円形の小麦色の物体が握られていた。差し出されたそれは月光の下で鈍く輝いている。決して品質の良さそうなパンではない。微かに黒ずみも見える。腹を空かした彼にとっても、決してご馳走には見えない。
「ずるいんだよ、大人って。子供でもできる仕事をひとり占めしてさ、パン屋さんのパンを溜め込んでたの」
「でも、どうしてこれを?なんだって僕が寝てる間に」
リンドは目を見を丸くして口をすぼめ、笑いをこらえるようにして答えた。
「え?それはねえ……、君にも誕生日、ほしいなって」
「お前は記憶がないせいで年も誕生日も分からないだろう。それじゃ悲しいってこいつが聞かなかったんだ。ま、俺もそれは寂しいって思ったから一緒に来たんだがな」
背中から声が届く。いつの間にか、オルマも意識を取り戻していたらしい。だが、その声に普段の覇気はない。
「そうなの、だから、食べてほしいんだ。きっと美味しいよ」
力なく俺の頬に触れるリンドの右手を握りしめながら、彼はパンを頬張った。ああ、これは見た目だけのまがい物だ。固く、味もいつだか苦し紛れに齧った虫のような濁った味がした。食用に値する類の物ではない。脳が嚥下することを拒否して咀嚼が上手くできなかった。それでも、彼は口を動かすことを止めなかった。
「美味しいよ、最高だ。リンド、オルマ。ありがとう。今日が僕の最ッ高の誕生日だ」
「えへへ、よかったねえオルマ。見つかっちゃったけど、サプライズ大成功だよ」
「ああ、俺は満足したぜ。これで思い残すことはねーな」
「はあ?何言ってるんだよ。一緒に帰らなきゃ」
「ごめんねえ、いっぱい叩かれちゃって、もう眠いんだ。多分もう起きられない」
「そういう事。実はさ、さっきまでキツかった痛みも感じない。さっき背負われた時も、お前の体温がはっきり分からなかったんだ」
「なんだよ、それ……。嫌だよ、帰るんだ。僕達は、明日も、明後日も一緒なんだよ」
「ずっと一緒だよ。離れない。私達は家族だもん。そうでしょ?」
「そうさ、見えなくなったとしても、俺たちは側に立ってる」
「何悟ったみたいな事言ってんだよ、まだ死んでもないくせに」
彼は悟らずとも直感で理解していた。理解したうえで拒んだ。もう助からない。
「でも、何も残せないのは嫌だから、最後にわがままを聞いてほしいんだ。……俺達に名前をつけさせてくれないか。結局お前のあだ名はうやむやになっただろ」
「2人で話してたんだよ。やっぱり呼び名がないのは寂しいって。考えたんだよ、君の名前。……アッシュっていうのはどうかな」
アッシュ。アッシュ。口の中で繰り返す。いつだかリンドが持っていた本で見た、魔法語で「灰」の意味を表すという言葉だ。そして、灰は不死鳥が生まれ変わる際に転じる姿でもある。
「俺達はさ、お前に生きていてほしいんだ。ずっと、ずっと。長生きしてほしいんだ」
「その名前なら、きっとずっと元気でいられるよ。どんなピンチだって、火の鳥が生き返るみたいに乗り越えてほしいなって。……どうかな?」
「ああ、いいな。いいに決まってるよ。……僕の名前は今からアッシュだ。誕生日は今日、今日ここで生まれ変わったんだ」
拒否なんてするものか。二人の想いが籠もった名を噛み締め、身体中からかき集めた元気を振り絞ってそう名乗った。
「ふふふふふ、よかったあ、気に入ってもらえて。いい名前だよねぇ。アッシュ、アッシュ……」
不意に言葉尻が途切れ、頬に触れる手から力が完全に抜けた。頭部は力無く重力に従って下がり、いつの間にか肌は陶器のように青白く変貌している。薄く開いた両の瞳に光は無く、ただ月光を反射するだけの物になっていた。
「リンド……?なんだよ、急に静かになって。もっと名前を呼んでよ……!なあ、オルマもそう思うだろう?」
分かっていた。リンドが静かになった理由も、もう名前を呼んでくれないことも。なぜだかオルマが返事をしてくれない理由も。いざその事実を眼前に突き付けられても、未だに心はそれを拒否し続けている。
「なんだよ、2人して。僕はまだ何も返していないのに!貰ってばかりだ、出会ってから今まで……!。今日だって僕がいなければ」
僕がいなかったらなんだ?誰かがそう問いかけた様な気がした。自分との出会いが無ければ、2人は死ななかったとでも?2人は元気なままで、大人になっていたとでも?いいや、違う。2人が死んだのは病気でも事故でも無い。誰がやった、誰が傷つけた。そこまで思考を働かせた時、彼の中の何かが音を立てて崩れた。
彼は自分が何をすべきかを悟った。ゴミ山の傍に先刻落とした木材を再び拾い上げ、彼はその先に足を進めた。
「オウオウ。ガキが夜中にこんな所ブラついててどうなるか、分かってんだろうなァ?」
「へッへッへッ、一丁前にガン垂れてムカつくなぁこいつ」
「また飯泥棒かよ。夜遅くにご苦労様だな、消えろや汚ねえ」
「……せえよ」
「ン~なんだって?僕ちゃん。もっとハッキリ喋ってくれよ」
「やっぱガキは話になんねえな。潮風で頭が錆びてんだ」
「うるせえッてんだよゴボウ野郎が!」
叫ぶと同時に隠し持っていた木材を瘦せこけた中年男性に刺す。予め折って先端を尖らせておいた木材は吸い込まれるように男の腹部に突き刺さり、男は隈が印象的な目をギョロギョロと回しながらその場に倒れた。
動揺して一歩引いた小太りの男の脛を勢いよく蹴りつけて態勢を崩し、丁度よく近づいてきた顔面に角ばった石を叩きつける。次いで殴りやすい位置に降りてきた後頭部に折った木材の片割れを刺して振り向くと、残りの一人が言葉にならない叫び声を上げながら路地の向こうへ走る後ろ姿が見えた。
叫び声に呼応するように周囲の物陰や建物の中から物音が鳴り始め、街に光が灯る。人の形をしているくせにモンスターみたいな真似をしやがる、とアッシュは思った。
火の光に照らされた少年と二つの死体を見る人々の反応は様々だ。驚愕し、叫喚し、恐怖し、狂瀾する。そして一部は反射的に敵意を剝き出しにし、握り締めた拳を振り下ろさんと距離を詰めてくる。相手を素手の子供と見くびってか、反抗を想定していない直線的な動きの者ばかりだ。ポケットから取り出した革袋を一番近くにいた大男に投げつけ、中に入っていた液体が男の右手から二の腕にかけて零れでる。
「肉が溶ける薬だ!くたばれこの野郎!」
中身が単なる泥水と分かっているこちらからすれば単純すぎるハッタリだが、何も知らない大人達はそうも行かない。真夜中で視覚による判断がし難いのも味方し、アッシュを狙う大人達の動きが止まった。街中の視線が水をかけられた大男に集まる。寝起きで判断力が低下しているのも幸いしてか、彼等は家無しの子供がそんな高価そうな薬を持っている筈が無いことを考えつく様子も無い。
足を止めて腕の心配をしている大男の股間にアッパーカットを叩き込み、膝を落として目線の近づいた鼻面を数回殴る。普段ならば問題なくアッシュを殴り倒せたであろう大男は力なくうつ伏せに倒れ、地面と口づけを交わしたまま動く様子はない。
我ながらとんだジャイアントキリングだが、今は達成感に震える時間ではない。少しでも自分を大きく見せるために胸を張り、戦果を誇示するように精一杯ドスを効かせた声で叫ぶ。
「次はお前等だ。俺が全部奪ってやる」
ざわめきが悲鳴に変わるのに、そう時間はかからなかった。
「全く、子供1人でよく三日三晩も逃げたもんだよ。細かい被害は特定できた?」
「と、とても無理ですよ。彼が殺したと見られる死後2、3日の死体は400を越えます。それだって全部確認した数字じゃないんですよ。なにせねえ、グチャグチャになってるのもあるから」
青髪のコートを羽織った男の問いかけに、若手の騎士は顔を顰めて答える。戦時中を除けば過去に例のない凶悪事件だ。加えてこの大惨事を引き起こしたのが年端もいかない子供となれば、騎士の声が震えているのも頷ける。
「生存者の証言は?」
「数人だけ安全を確保できましたがどいつも碌に喋りません。全く、貧民窟が現場ってのが都合が悪い。被害者も脛に傷のある連中なんで騎士団の保護下に入ろうとしやしない。そのせいか通報は遅かったし」
「敗戦国の兵士や傭兵くずれのプライドってやつかな。はは、こんな落ちぶれた場所に住んで何の誇りが残ってるんだか」
「笑えませんよ。そういう奴等はいつ騒ぎを起こすか分からない。そんでいざ事が起きた時に戦うのは俺なんです。ああ、嫌だなあ」
どこか嘲りを感じさせる男の口ぶりに、騎士はうんざりといった様子で返答した。
「騎士団は調書に何て書くつもりなんだい?騎士団が到着した後も被害は収まらず。犯人は逃げ回りながら貧民窟の大人を殺し続けた。騎士団員にも被害あり。捕まえてみたら子供でしたなんて。そのまま書いても色んな意味で信じられないよ」
にやりと意地の悪い笑みを浮かべる男に、若い騎士は心底嫌そうに応じた。事後処理を担当する立場としてはさぞ耳の痛い話だろう。
「意地悪を言わないでくださいよ。まあ、そんな犯人を見事捕まえたジャックさんに言われたら言い返せませんが。今回は本当に助かりました」
「おいおい。騎士団が子供1人捕まえられないなんて情けないこと、認めちゃいけないだろ」
「子供と扱っていいんですかねえ。犯行に使われたのは石に木の枝にネクタイに鍋まで。なりふり構わないというか、現実離れしているというか……。正直言ってその筋のプロの犯行って方が納得いきます。戦争でもいたんでしょう、その場にある物で対象を暗殺する工作員みたいな連中が」
「ああそうか、君は戦争に参加していない世代か。まあやり口に関して言うなら、そこらの殺人ギルドの連中より腕があるよ。乞食とはいえ体格差のある大人相手にこの大立ち回り。才能あるよ、君は生まれた時代を間違えたね。なあ、褒めてるんだぜ……、少しは喜んでもいいんじゃない?」
ジャックと呼ばれた男は騎士団員との会話を区切り、自分の尻に敷かれている少年を見下ろした。アッシュは後ろ手に縛られた両手と数日間の集中が切れた疲労によって身動きも取れず、ただ自らの上に居座る男を睨み返すことしかできない。
「そう力むなよ。君は僕との実力差を充分に理解した筈だ。仕切り直したところで結果は変わらないだろ?」
「やってみようぜ。お前の鼻を削いで釣りの餌にしてやる」
ジャックの言う通り、彼我の実力差は歴然だった。三日三晩貧民窟の大人を襲って回り、騎士団の追跡も躱し続けたが、ジャックの前では勝負すら成り立たず一瞬で取り押さえられた。それでも、オルマとリンドの死を前に貧民窟の全ての大人を恨んだ自分が、立場は違えど大人の側に立つジャックに阻まれた現実を、己の無力を認めたくは無かった。
「殺してやる……、お前も、横の騎士も。その後は街の大人だ。それで俺達子供だけで生きていくんだ」
そんな大層な目標は微塵も考えてはいない。ただ勢いのまま口から飛び出た戯言だ。それでも、案外悪くないとも思った。上手くいくかなんて知らないが、窮屈で貧相な今の自分よりも面白い。子供じみたアッシュの野望に騎士が「ヒッ」と震え、対照的にジャックは薄く口角を上げた。
「……へえ。凄いこと言うなあ君。じゃあさ、僕と一緒に来ないか?」
「あ!?」「エッ、何言ってるんですジャックさん!」
「いや凄いじゃないか。ハングリーとでも言おうか、汚い見た目に反して随分と夢見がちだ。それに彼の目を見なよ、なんだか本当に成し遂げそうな気がしてくるよ」
「なんかズレてません!?成し遂げるってそれ俺達死んじゃってますし!」
「いや将来的な話だよ。然るべき所で鍛えれば結構伸びそうじゃないか?」
「おい、勝手に話を進めんなハゲ。将来も何もあるか、縄を解いたら速攻でお前等を潰してやる」
「僕はハゲてない。それに君、夢は凄いけどね、それを実現する手段とかは考えたのかい?」
「アア!?そうだな……、邪魔な大人を全員殺して潮風のキツい海岸から子供全員で移住する。大人さえいなきゃどうにでもなるだろ」
「それ見ろ、思った通り!やっぱり行き当たりばったりだ。君は目を背けているだけだよ。なんで凶行に走ったとか詳しい事情は知らないけどさ、君は生きる目的、いや生きる意味そのものを失っているんだ。空っぽだよ。中身の無い奴が高望みしたって何も成し遂げられないぜ」
アッシュは反論できなかった。ジャックは軽薄そうな言動の割にその中身は的を得ている。
「じゃあオイ、今すぐ縄を解けよボケ。その空っぽな奴に何ができるか見せてやる」
「君さあ、自分で何を言ってるのか分かるかい?君は今、殺すほど大嫌いな大人に今まさに頼ろうとしてるんだぜ?」
「ッ……ンの野郎、じゃあどうしろってんだよ!一緒に生きる家族はいない!生きる希望だとか目的だとか、ンなモンどこにあるんだよ!」
「僕を殺せばいい。そのため僕と一緒に来なよ」
「ハ!?バカじゃねえのお前」
「僕はバカじゃない。それに君が言ったのさ。縄を解いたらまず僕と騎士団の彼を殺すって。どっちにしろ僕を殺せる程度の力が無きゃあ、街一つを子供だけで守り抜くなんて不可能だよ。丁度いい、君が生きる目的とやらを見つけるまでの繋ぎになってやろうじゃない。僕を殺す頃には、まあ何か好きな物の一つでもできてるんじゃない?」
「舐めた事言いやがって、誰がそんな誘いに乗るんだよ」
「君は乗るよ。じゃなきゃ君は僕から逃げたことになるんだぜ。初対面だけど分かるぜ、君のプライドはこういうのを許さないんじゃない?」
「ぐ……、畜生が。テメエは嫌いだ」
苦し紛れの悪態を付いたが、それが降参に等しいことはアッシュにも分かっていた。ジャックの下で力をつけることが最も得になるのは確かであり、騎士団に連行されて少年刑務所なりに入るよりはマシだ。ここまで来て大人の言う事に従うのは癪だったが、それを逃げだと言われれば心に引っかかるものがある。
沈黙を肯定ととったのか、ジャックはアッシュに跨るのを止めて向き直り、簀巻きになったアッシュの前にしゃがんで目線を合わせた。わざとらしく咳払いをすると、アッシュに向けて自己紹介をした。
「ジャック・バールだ。今はフリーで紛争の傭兵やらモンスター狩りの助っ人をしている」
「……アッシュ」
「良い名前だ。よろしく、アッシュ」
記憶の無い彼は子供が大人に搾取される腐った貧民窟に流れ着き、心から信頼できる家族に出会った。だが彼等はアッシュという名前だけを託し、もう手の届かない高い所へ行ってしまった。せめて2人が生きた証が少しでも残るように、自分は一秒でも長くこの世に留まり、この名前を背負って生きていく。あの日から変わらない、アッシュの生を望む原動力だ。
随分と長く、古い思い出に浸ってしまった。あの頃はオルマとリンドだけが心の支えだった。今はそこにパティが加わった。
周囲には二階部分が倒壊した廃墟と木々があるのみだ。術者が離れたせいか、廃墟の上部を覆う氷は融けかけている。ひんやりとした空気があの街を思い起こさせるが、草木が芽吹く森の中は潮風が吹くあの街とは色も、匂いも何もかもが違う。
顔を上げると、レイモンドとリーベが変わらずアッシュを見下ろしていた。視線の先に佇む相手の行いがあの日憎んだ大人達に似通るせいで、随分と寄り道をしてしまった。その威厳も戦闘力も、ジャックには遠く及ばないというのに。
だが崩落の危険があった地下やリーベという人質の存在のせいで、予想以上に勝利が遠のいてしまった。これ以上時間を奪われるのは、今別の場所で戦うパティとリオのため、そして何より自分自身のためにも避けたい所だ。無意識にかき乱してしまった髪を軽く撫でつける。アッシュはあの日のジャックがしたように咳払いをすると、仕切り直すように相手に問いかけた。
「悪いなレイモンド、取り乱した。そろそろ終わらせたい頃合いだよな、お互いに」
「気にすることはない。痴態を見せたのはお互いに、だ。決着を付けよう、アッシュ」




