追憶
自我を取り戻した瞬間から、彼はそこにいた。波の無い果てまで広がる海岸線。汀には砕けた貝と原型のないモンスターの死骸。
木組みの防波堤の向こうには、木と石と鉄と革と骨、あり合わせの素材で彩られた小汚い貧民窟。自分の服から香る潮の匂いにがやけに印象に残っている。その集落は海に面した街の外れにあった。
自分が自分だと分かった最初の日、あてもなく歩いて迷い込んだのは貧民窟の中心部、そこはボロ着を身にまとった大人で溢れていた。奴等は口々に叫んだ。お前は誰だ、見ない顔だ、気に入らない顔だ、と。彼は殴られ、蹴られ、嬲られ、打たれ、叩かれ、最後に投げ出された。
後で知ったことだが、そこは貧民窟内でも大人達の住む区画であり、入り込んだ子供はもれなくお仕置き、という名のストレス発散の対象にされるのだという。これは彼を子供の集まる区画に案内した少年に教えてもらったことだ。自分の寝床を間借りさせて彼を休ませたその少年は、名をオルマと名乗った。
「なあ、君の名前はなんていうの」
「知らない。名前も、どこから来たのかも」
「記憶喪失ってやつ?でも心配することないぜ、そんな奴ここじゃ珍しくないんだ」
ここには強いストレスや外傷によって記憶を失った人も多くいるのだという。でも君の家族は君の事を探している筈だぜ、オルマはそう言って笑いながら俺の肩を叩いた。
どうやら彼の着るシャツやズボンはそれなりに値の張る品らしく、少なくとも貧乏人揃いのこの貧民窟でお目にかかる代物ではないらしい。とすれば、先程絡んできた大人達が衣服を剥ぎ取らなかったのが不思議だ。ふとした疑問をぶつけると、オルマは恥ずかし気に頭を搔きながら答えてくれた。
「値打ちがあるって分かる人もいないのさ。俺、元は行商ギルドの子供だったんだ。だから人より商品の価値を見分けられる。見る目があるってヤツさ」
「家族がいるの?」
「いるよ。多分どっかで生きてる。けど、家は例の紛争に巻き込まれて商品の大半を駄目にしちゃってさ」
紛争で仕入れ先のギルドが潰れたあおりを受け、オルマの両親が経営していた行商ギルドは経営難に陥った。ギルド存続のためにメンバーは苦難し、安直な結論に辿り着いた。収入が足りないなら出費を見直せばいい。先の見えないギルドにとって子供の養育費は身に余る固定出費だ。いつか迎えに来るって言われてもう半年経つけど、流石に諦めムードってやつさ。そう微笑するオルマに、彼は笑みを返すことが出来なかった。
「ごめん、悪いことを聞いた」
「いいって。そんなに気にしてないんだから。ここでの生活だってもう慣れっこなんだ」
「ごめんな。なあ、今言った紛争について詳しく教えてくれないか?きっと大事なことなんだろう」
「そっか、記憶喪失!言葉は覚えているのに人の脳ってやつは不思議だなあ」
オルマは無知な俺を馬鹿にすることなく、ここ数年でこの大陸で起きた戦争の一端を教えてくれた。東大陸の軍事国家クルシアによる世界侵攻が始まって百余年、通称統一戦争はクルシア帝国の大勝利によって終結した。世界の陸地の八割はクルシア帝国の領土に併合され、クルシア帝国王による統一歴の開始宣言によって表面的には世界平和が為された。
さりとて、全世界を巻き込んだ戦争がすんなりと集結する筈もない。辺境に残る反帝国戦力は示し合わせたように同じタイミングで蜂起し、帝国の打倒を胸に反撃の狼煙を上げた。しかし相手は世界の8割を支配する大帝国だ。帝国から見た武装蜂起は疲弊しきった残党による悪あがきに過ぎなかった。各個撃破された勢力は次々とその旗印を捨て、統一戦争の終焉から2年程経った今では、各所で小さな火種がぽつぽつと燻るのみである。
歴史学者はクルシアの侵攻開始から統一歴宣言までの歴史を「統一戦争時代」「百年戦争」と呼称した。それ以降から現在に至る数々の小規模戦争を、まとめて紛争と呼び分けているのだとオルマは言った。
「まあ俺達には関わりのない話さ。でも大人共に聞かれちゃアウトだぜ、あいつ等の中には戦場から逃げ出してきた奴も混じってるんだ。戦争で必死に頑張った末路がホームレスってのも悲惨だが、俺等ガキ連中を虐げるんだ、同情の余地はねえ」
「うん、気をつけるよ。それにしても、最近の国の動きまで知っててすごいな」
「海に落ちてる新聞で情報を仕入れるのさ。ここの子供の中じゃあ、活字を読めるだけでアドバンテージになるんだ。新聞を朗読すれば金くれるっていう大人もいるんだから笑えるよな」
「ねえ、入っていい?私もその人と話してみたい」
テントの外から、見知らぬ声がした。
「おー、入りなよ。お前に紹介しなきゃな、こいつはリンド、俺の妹だ」
「あ~もう、よく分からない話してるからタイミングが分からなかったよ。面倒くさい!よろしくね!名前教えて!」
「うん、よろしく、リンド。ごめんけど名前を覚えていないんだ。オルマの妹なんだね?」
2人の会話には少し納得しかねた。オルマはくせの目立つ金髪に白い肌、対するリンドは直毛の赤髪に浅黒い肌。顔立ちも似ているとは言えない。勿論、親の遺伝や日焼けと言われればそうですかと納得するしかないのだが。リンドは自分が見つめられていることに気づくと、はにかみながら俺の胸を叩いた。
「あ、似てないって思ったでしょ!えへへ、まあ正解なんだけど」
「俺たちは元々赤の他人だったんだ。だけどまあ、お互いを家族と思えば気がまぎれる」
家族。気がまぎれる。単純な理由だが、その響きはすんなりと脳に染み渡った。俺にも家族がいるはずだ。どこに?オルマは迎えにくるかもと言った。俺は?いつ迎えが来る?考えれば考えるほどに、自分の身体が暗闇に投げ出されるような不安感が全身を包む。ああ、これは嫌だ。ここから逃れたい。暖かな場所にいたい。どうすれば、そう案じた時、求めていた言葉は与えられた。
「なあ、お前も一緒に暮らさないか」
貧民窟での生活は予想以上に貧しく、惨めで、みすぼらしいものだった。日の出と共に寝ぐらを出て、海岸の岩石群の裏に集まる虫を集める。野菜の切れ端なんかがあれば捕まえるのは楽だが、虫に食わせるくらいなら自分たちの食料にするので餌抜きで捕まえる。
ついでに浜辺に打ち上げられたゴミを物色して生活に利用できそうな物を探す。食べられる魚があればラッキーだが、雨風凌ぎになる木片でもあればいい方だ。ごく稀に新聞や食料を積んだ樽が打ち上げられる。これは海に面した子供区画の特権だ。とはいえこの立地は子供の住処を潮風のバリケード代わりにする大人の思惑で成り立っているため、素直に幸運と受け止めて良いかは怪しい。
日が昇ってきたら大人区画との境界近くや比較的裕福な市街地の片隅に陣取り、小間使いを探す大人を求めて声をかけ続ける。街の人間は嫌悪感を露わにして逃げるようにこちらを避けるので、旅人や流れのギルドに狙いを定める。スラムの子供に慣れていない大人は同情して賃金を多めに包んでくれたりするので、運が良ければそれだけで数日は食いつなげる。
日が落ちる前には寝床に帰り、寒さを和らげるために一緒になって黄ばんだ薄布にくるまる。魔石や蝋燭があれば話は別だが、どちらも食費に代えてまで欲しいものではない。そうやって1日は終わる。
最初は抵抗感があったものだが、住めば都とはよく言ったものだ。街に流れ着いてから1か月、彼は他の子供達と同じように日銭を稼ぎ、その日を助け合って生きることそれ自体に喜びを感じるようになっていた。ある日の夕方、リンドは薄暗い寝床の中で寝転がりながら話しかけてきた。
「ねえ、やっぱり名前が無いって不便じゃないの?私考えたんだ、君にもそろそろ呼び名がいるんじゃないかって。『名無しくん』じゃ寂しいよ」
貧民窟で暮らす中で、彼は周囲に「君」だとか「茶髪の子」だの「名無しくん」と呼ばれていた。名前はない。彼本人が決めたことだ。
「おい、その話は前に決着が着いただろう。いつか親が迎えに来た時に本名と違う名前があるのはよくねえ。ここにしがらみが残る」
「オルマいじわる~!あだ名くらいあってもいいじゃん、君はそう思わないの?」
「う~ん。オルマとリンドとはずっと一緒にいるからなあ。別に気にしてないかも。他に名無しの子だって沢山いるし」
「寂しくないの?」
「別に。でもそうだな、呼び名くらいはあっていいかも」
「だよねえ!私この本読みながら考えてたんだあ、何か名前の元になるものないかって」
リンドは表紙に『伝説のモンスター』と書かれた古い本を自慢げに掲げた。パラパラとめくるその本をのぞき込むと、名の通り仰々しいイラストと注釈で見たことも無いモンスターの特徴が紹介されている。
「モンスターから名づけるつもりかよ!?あんまり元が分かりやすいのは嫌だぞ」
「オルマうるさい!私達の中で呼ぶだけなんだから、かっこよくて呼びやすくて、かっこいいのがいいなあ」
「かっこいいって2回言ったな」
「でもかっこいいのがいいでしょ!早く読んでよ」
リンドは活字に明るくない。オルマが本を読み聞かせるのは、このテントの毎晩の恒例行事になっていた。
「名前がつくのは僕なんだ、今日は僕に読ませてくれよ。……ふんふん、『空飛ぶカバ、ヒッポスカイ』『千手蜂グランビー』『燃ゆる黒風、ブレイトロン』ね。なんか人の名前っぽくはないし、そもそもこいつらって本当にいるの?」
「いるから本にしたんじゃない!こういうのは信じないと面白くないわ」
「真偽はおいといて、こいつは格好いいね。『紅蓮の吉凶、不死鳥』だって。何度死に瀕しようと灰から蘇る不死身のモンスター。振り撒く炎は心を暖める灯にも、身体を焼く業火にもなる。だってさ」
「自称不死鳥か。由来は格好つくが名乗るのは恥ずかしいな」
「ふ~ん不死鳥ねえ。いいんじゃない?ププッ」
「あ、リンド、言い出しっぺの癖に他人事だと思って。おりゃおりゃ」
「あはっはっはっは!!くすぐったいってば!ははは!」
「おいあんまり騒ぐな!近所迷惑になる!」
「ごめんごめん。ってうおお!?脇腹は無しだろこら!あははは!」
「うるせえってのに。ああ、もうおさまりがつかない……」
口では窘める風を装っているが、オルマも混ざりたそうにこちらを見ている。気づいておいて無視するほど彼もリンドも薄情ではない。瞬時に目配せをしてタイミングを揃え、同時にオルマへ飛び掛かる。こらええてはいるようだが、どうやら脇の下が弱点のようだ。
じきに我慢の限界が訪れ、寝床から漏れ出る笑い声が3つに増えた。負けじと手を突き出すオルマの反撃を避けるべく二人は飛び回り、木とボロ布で作られたテントが揺れる。笑い声は陽が落ちるまで続き、翌日には3人揃って周囲に住む子供達にお叱りを受けた。
くすぐり合いで騒いだ次の日の夜、早々に眠りについたリンドの傍で、俺とオルマは眠りにつけないまま雑談をしていた。
「全く、騒いで怒られるなんて情けない」
「オルマも終盤乗り気だったくせに。にしても、オルマはしっかりしてるよなあ。僕も年取ったらそうなるのかな」
「性格ってのはそういう物でもないんじゃねーの?ていうか年を言うなら多分同い年くらいだぜ」
「そうかなあ?オルマいくつだっけ?」
「7。ちなみにリンドは5才ね。お前の身長はリンドと変わらないもんなあ、5才くらい?ひょっとしたらチビなだけで俺より年上かも」
「はは、なんかおかしいなあ。でも大人になるのが楽しみになったよ。オルマの背を抜かしてやりたくなった」
「言ったな?俺は親父がノッポだったから結構伸びるハズだぜ?」
「僕の親だって2メートル越えのモデル夫婦かも」
「おもしれえ、迎えが来たら俺に1番に会わせろよ。親父とどっちがデカいか見定めてやる」
「うん、約束だ。へへへ」
彼はそう口では言いながらも、その約束が叶わないことを内心で願っていた。迎えがくれば、ここでの生活は終わる。そうなれば苦しい貧民窟ともおさらばになるわけだが、それは同時に二人との別れも意味する。
いや待てよ、と思い返す。オルマによれば、彼の着ている服はそこらじゃ取り扱っていない高級品らしい。となれば、それを買い与えた彼の家庭は財力を持ち合わせた上流階級の可能性もある。ということは、子供2人を養子として抱え込むことも不可能ではない筈だ。
頼む、顔も知らない両親よ、迎えにくるならお金持ちであってくれ。そして3人用の豪邸があって、沢山食べて遊ぶんだ。そんな妄想を繰り広げながら、彼の意識は睡魔によって深い深い闇へと落ちていった。




